みやめも2.0

思考のメモ書き

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日本の教育はどうあるべきか―「制度化」された人格と社会

 

はじめに

 「社会」とは、人間がより豊かで幸福に暮らすために作られた「制度」だ。「豊かで幸福な暮らし」という価値の実現のために、人々が絶えず世界を観察し、思考と実践を繰り返し、主体的に作ってきたもの、それが社会である。それゆえ社会とは本来動的で、常に変化し続ける性質をもつ。

 いま、日本社会は限りなく「静的なもの」として存在している。人間と社会の従属関係は逆転し、「人間の手でつくるもの」として存在するはずの社会制度は「自明の原理」と化した。国民は天からの使命に従うがごとくシステム上の役割に固執し、もはや「豊かで幸福な暮らし」のために社会を疑うなどという姿勢はほとんど見られない。社会の構成員は悉く主体性を失い、ただ機械的な営みに専念している。一方でそのように停滞した社会制度が絶えず変化する「世界」を漏れなく包摂することなどできようもなく、「世界」と「社会」の間の矛盾は日々増え続けている。

 社会というシステムの可能性を十分に引き出し、ダイナミックに運用していくためには、社会を構成する一人ひとりが、社会に対して主体的に向き合う必要がある。人々が主体性を回復するためには何が必要なのだろうか。以下では「制度への従属」の代表例、あるいは根源として「学校教育」というものの在り方を検討し、それらの内容と「社会の運用」というテーマをつなぎ合わせ、主体的な人間によって作られる豊かな社会のために今後必要とされる手段を考えていくものとする。

 

Ⅰ.「制度化」の象徴としての学校 

 日本では小・中学校課程の9年間を「義務教育」としている。学齢期の子どもは必ず学校に通うことを求められ、保護者には「就学義務」として子どもを通学させるよう取り計らう義務がある。「就学義務」はあくまで「就学させる義務」なので、諸外国に見られるホームスクーリングなどでは義務教育の履行と見なされない。したがって日本における子どもの成長過程について、そのほとんどは「学校」という空間、制度に縛られていると言っても過言ではないだろう。子どもの成長が常に学校を軸としているような環境について、イヴァン・イリイチ「学校化」という概念を用いて警鐘を鳴らしている。イリイチの「学校化」についての説明は以下のようなものだ。

 

 教授されることと学習することを混同し、進級することがそれだけ教育を受けたことに、免状を取得すれば能力があるとみなすようになる。多くの人が学校で教育を受けることによって、自分よりよけい学校教育を受けたものに対して劣等感をもつようになってしまう。われわれが知っていることの大部分は、学校の外で教師の介在なしに「話し、考え、愛し、感じ、遊び、呪い、政治をし、働くのを学んできた」にもかかわらずに、である。

 さらに、学校をとおして価値を受け取るようになると、想像力が学校化されてくる。学校で教授されることが教育だとみなすようになるのと同じようなことが健康や安全などにも起こってくる。(中略)彼の想像力も「学校化」されて、価値の代わりに制度によるサービスを受け入れるようになる。医者から治療を受けさえすれば健康に注意しているかのように誤解し、同じようにして、社会福祉事業が社会生活の改善であるかのように、警察の保護が安全であるかのように、武力の均衡が国の安全であるかのように、あくせく働くこと自体が生産活動であるかのように誤解してしまう。健康、学習、威厳、独立、創造といった価値は、これらの価値の実現に奉仕すると主張する制度の活動とほとんど同じことのように誤解されてしまう。そして、健康、学習等が増進されるか否かは、病院、学校、およびその他の施設の運営に、より多くの資金や人員をわりあてるかどうかにかかっているかのように誤解されてしまう。イリイチ『脱学校の社会』)

 

 「学校化」で失われるのは「物事に対し本質を捉えながら向き合う力」である。ゆえに「学校化」の問題は「子どもの教育」という域に留まらず、「人間が社会というシステムを主体的に運用できるか」というテーマにまで発展すると言えるだろう。「ある価値のために作られた社会制度を人間が主体的に運用する」という本来の社会の有り様は、人々が「学校化」されることによって「社会制度に与えられた基準に対し人間が受動的に従う」という錯誤したものになってしまう。

 

Ⅱ.銀行型教育

 「本質を見て判断できるか」、転じて「主体的であるか、受動的であるか」という性質を左右するのは、「学校化」だけではない。学校教育の「中身」についてもやはり議論する必要があるだろう。「学校化」に切り込むことがマクロ的なアプローチだとすれば、こちらはいわばミクロ的なアプローチである。

 パウロフレイレは教育の「中身」についての悪い例として、「銀行型教育」というものを挙げている。「銀行型教育」とは、簡単に言えば「教師がただ一方的に話し、生徒はただ教師が話す内容を機械的に覚える」といったような教育の構図を指す。

 

 生徒をただの「容れ物」にしてしまい、教師は「容れ物を一杯にする」ということだけが仕事になる。「容れ物」にたくさん容れられるほどよい教師、というわけだ。黙ってただ一杯に「容れられている」だけがよい生徒になってしまう。(中略)生徒と気持ちを通じさせる、コミュニケーションをとる、というかわりに、生徒にものを容れつづけるわけで、生徒の側はそれを忍耐をもって受け入れ、覚え、繰り返す。これが「銀行型教育」の概念である。フレイレ『被抑圧者の教育学』)

 

 「銀行型教育」についても「学校化」と同様の「手段の目的化」が見て取れる。本質的な学びにおいて知識とはリアリティを伴うものであり、連続した歴史性、歴史的特性の上に成り立ち、動的な今という瞬間に集中する。一方で「銀行型教育」はカリキュラムをはじめとするシステムベースのものであり、歴史的存在としての人間は目に入らず、静的状況に重きを置く。フレイレはこういった特徴から「銀行型教育」を「現状維持肯定派」や「ネクロフィリア的」とも表現している。「ネクロフィリア」とは「死するものへの偏愛」を意味する言葉で、エーリッヒ・フロムはこの「ネクロフィリア」という概念について次のように述べている。

 

 命というものは構造的にも機能的にも成長するもの、という特徴をもっているが、ネクロフィリアは成長せず、機械的なものだけを愛する。ネクロフィリア的人格は有機的なものすべてを無機的なものにしようという動機をもち、命を機械的なもの見なし、人間をモノのように見る。命のプロセス、感情、思考をすべてモノに変換してしまう。経験ではなく、記録が、そして存在そのものではなく、所有することが重要だという。ネクロフィリア的な人は、それが花であれ、人であれ、とにかくその“モノ”を所有したときに自己実現ができたととらえるが、そのような考え方は結果としてモノの所有が脅かされたときには自らの存在そのものが脅かされる、つまりモノの所有が脅かされるときは、自らの世界というものが脅かされてしまう、ということに通じてしまう。(フロム『人間の心』)

 

 ここでの「モノ」とは広い意味合いで捉えられる。すなわち「静的なもの」であり、「本質ではないもの=手段」である。またフロムの後半の指摘は重要なもので、ネクロフィリア的人格を持った人々は「モノ」に自身の存在を委ねているがゆえに、動的な「主体性」を避け、静的な「客観性」にコミットする。その結果、自身の行動は客観的に観測可能な事実や因果関係によって決定づけられるようになり、彼らから主体的な行動は失われてしまう。

 

Ⅲ.日本の教育の展望

 2008年に改訂された新しい学習指導要領は、ゆとり教育から脱却したということから「脱ゆとり教育」と称され、小学校では2011年度、中学校では2012年度、高等学校では2013年度から完全実施された。「脱ゆとり教育」はそれまでの「詰め込み教育」とも「ゆとり教育」とも異なる「生きる力」を育む教育というテーマを掲げている。「脱ゆとり」の具体的な変更点は言語活動や理数教育の充実など内容を変更するものから、授業時数の増加や教科書のページ数の増量など純粋に量を増やすものまで多岐にわたる。「生きる力」というテーマが仮に実現すれば「銀行型教育」の様相は薄れる可能性がある。しかしいずれにせよ、学校という枠組みのなかで全てを処理しようとしている以上、やはり前述した「学校化」の問題は解決されない。

 

Ⅳ.教育から社会まで

 日本の現状における「教育」が制度化の象徴としてあり、人々が主体性を失う大きな要因となっていることは既に述べたとおりだ。またⅠで触れたように、「学校化」の問題は社会制度と本質的な価値とを混同させるプロセスとして存在し、「人間が社会というシステムを主体的に運用できるか」というテーマにまで発展する。実際、イリイチの挙げた例のほとんどは現在の日本社会に当てはめることができるだろう。教育改革の方針はもちろん、社会保障は役所に窓口を設けることで履行されたものとされ、長い労働時間は必ずしも生産性に寄与していない。軍備の増強と安全保障が同一視され、地方分権地方公共団体に予算を分配することで遂行されるものと見なされている

 また「ネクロフィリア的人格」についても、その社会的な影響を考える必要がある。Ⅱではこれを「銀行型教育」の特徴として採り上げ、「授業において生徒は終始受動的であり、生徒の側からアクションを起こすことがない」といった状況を一つの例とした。この「学校」と「授業参加」を巡る状況は、ほぼそのまま「社会」と「社会参加」の問題に置き換えることができる。すなわち「ネクロフィリア的人格」が蔓延している状況下では、社会参加へのハードルが高く設定されてしまうのである。

 これらを踏まえると、われわれが社会を健全に運用する上での課題は大きく分けて二つだ。一つは「学校化」からの脱却、そしてもう一つは社会参加へのハードルを下げる試みの実践である。

 

Ⅴ.「学校化」からの脱却について

 「学校化」を脱却するには、何よりもまず学齢期の生活における「学校」のウエイトを減らさなければならない。既に述べたように学習指導要領の改訂に伴った授業時間の増加などは即座に改められるべきだろう。だが、現在の日本の学校教育にはそれ以前になによりも深刻な問題がある。それは「部活動」である。

 「クラブ活動」「部活動」「サークル活動」とは、いずれも共通の趣味・興味を持つ仲間が集まり、それぞれに沿った活動をすることを目的とした団体である。この三つはしばしば同一視されるが、「部活動」のみ学校教育活動として存在している。文部科学省は部活動を「教育課程外」の学校教育としてはいるものの、「原則として全員入部」という制度を採っている中学校も多く、また内申書への影響などから「部活動に入ることが当たり前」といった風潮が一般的なのが実態である。

 部活動の問題は何よりもその活動時間の多さにある。活動は主に放課後に行われるが、朝練と称して朝に活動をすることも珍しくない。とりわけ運動部については活動の頻度が平均的に高く、週あたり6日活動する団体が最も多い。また文部科学省の調査によれば、生徒、教員、保護者の1割から2割が、運動部の最大の問題として「活動時間が多すぎる」と答えている。

 「学校化」は、「学校教育」があらゆる範囲をカバーしようとするために、子どもの価値基準が一元的になることで起こる。したがって「部活動」という「学校教育」がこれほど多大なウエイトを占めているというのはそれだけで問題なのである。

 さらに「部活動」には、それ自体の性質の問題もある。近年では「ブラック部活動」とも呼ばれ、先ほどの「学校教育として長時間拘束する」という問題とは別に、純粋に肉体的負担の問題として拘束時間の長さが挙げられているほか、いわゆる「根性論」に基づいた理不尽な指導が問題化している。またこうした問題があってもなお「辞められない」というのも「ブラック部活動」の問題点の一つで、これは上述したように「部活動」が内申点の評価に影響することや、部活を辞めることで学校での居場所がなくなるといった理由によるものである。

 この「ブラック部活動」問題に対し、2016年8月1日放送のNHKクローズアップ現代(*1)では「長く練習するほど良いわけではないという価値観を浸透させ、拘束時間を減らす」、「やめる勇気を持つ」といった策を提示しているが、いずれも実現したところで「学校化」問題は解決せず、部活を辞めた際の学校での人間関係への影響を本人の気の持ちよう次第としてしまうのも、いささか投げやりな印象を受ける。

 したがって私は、この「部活動」を巡る問題を解決するにあたって、「部活動」そのものを廃止すべきであると考える。「部活動」が担っていたスポーツや文化活動については、完全に「学校外」の枠組みで行われるべきである。

 スポーツや文化活動を完全に学校(とりわけ義務教育)と切り離すことで、形骸化していた「自主的な学生の活動」という部活動の意義は代替され、本人の取捨選択によってより自由にスポーツや文化活動に取り組むことができる。また学校外の指導者、仲間とコミュニティを築くことで、子どもは多様な価値観に触れる機会を得られ、「学校化」からの脱却に繋がる。学校の成績や学校の人間関係とも切り離されているので、指導に問題があったときには内申点や学校での居場所を気にせず辞めることができる。もちろん、それまで「部活動」のカテゴリに入っていなかったボランティア活動や地域参加などの時間を確保することもできるだろう。

 「学校教育」の割合を減らすとともに、多様な場、多様な人間と相互に関わりあえる環境を用意することで「学校化」問題は解決に向かうものと私は考える。

 

Ⅵ.社会参加へのハードルを下げる試みについて

 Ⅳにおいて「社会参加」は「授業参加」の有り様をほぼそのまま受け継いでいると述べたように、まずは教育について「銀行型教育」から「問題解決型教育」へとシフトさせる必要がある。「問題解決型教育」とはフレイレが「銀行型教育」と対称的な教育方法として挙げた概念であり、対話性を重視し、社会を動的なものと捉える理念の上に成り立つ。「銀行型教育」のもとでただ受動的に知識を吸収するのと、「問題解決型教育」のもとで「自分から発信する」という訓練を受けているのとでは、その後の社会参加のしやすさに大きな違いができるだろう。

 しかし、これは基本的に個人レベルでの認識を変える手段であって、直接社会全体の認識を変えていく試みとは言い難い。もちろん皆が等しく「課題提起型教育」を受けることで主体的に社会参加をする人間が増え、そうした人間の割合が着々と増えることで社会全体の空気が変わっていく可能性はある。だが言うなれば、これはハードルを下げるというよりも、ハードルを乗り越える力を個人に付与する試みである。だとすれば本当に「ハードルを下げるような試み」とは、どんなものになるだろうか。

 私は「社会運動を肯定すること」こそが、社会参加のハードルを下げる試みであると考えた。社会運動とは、社会の状況の改善や社会問題について独自に提起したり、政府の社会政策に対して推進/阻止を求める者が、それらの実現を目的として同志を募り団結し目に見える形で行動したりして、世論や社会、政府などへのアピールを通じて問題の解決をはかる運動のことを指す。また近年の社会運動は、かつてのような思想・イデオロギー色の強い運動とは異なり、比較的独立したテーマに沿って主張を掲げるという形のものが多くなった。なぜ、これらを肯定することが社会参加へのハードルを下げることに繋がるのか。それは社会運動というものが、制度化(学校化・ネクロフィリア化)された人格によって否定される傾向にあるからである。

 社会運動は、一般には独自に政党を結成したり、候補者を擁立したりするようなことはせず、圧力団体を組織するまでに留める場合が多い。また近年の社会運動は上述したように細分化しており、ともすれば政治家などに無視されることもありうるような、単なる「意思表示」という目的で行われることもある。

 こうした社会運動の在り方、とりわけ「意思表示」のようなものについては、制度的な視点から見た場合、ほとんど無意味なものと映るだろう。なぜなら制度上の成果が、直接政党を結成したり候補者を擁立したりすることに比べて少ない、もしくは全くないからである。あるいは自身を含む貧困による生活の不自由をテーマとして運動しているような場合、運動に費やす時間と労力を労働に充てた方が、貨幣経済という制度上は少しでも改善されるからである。

 しかしこれらは、価値へのコミットメント、あるいは「社会参加をする機会がより多くあること」それ自体の社会にとっての有効性といった視点を欠いた指摘である。徹底的に制度化された人格は、あくまで制度上の善/悪、役に立つ/立たないといった基準で物事を捉えるため、こうした点まで想像が及ばない。逆に言えば、価値コミットメントに基づいて「無意味」とされる社会運動を肯定していくことで、ただ社会運動というものが認められるだけでなく、制度化された人格の想像の余地を拡げられる可能性がある。そして社会運動という、(制度的な観点から)否定されがちだった「社会参加」の例が広く認められることで、社会全体における「社会参加」のハードルは下がることだろう。

 

おわりに

 冒頭において私は、社会をダイナミックに運用していくためには、皆が社会に対して主体的に向き合う必要があるのだと述べた。ここでいう「皆」とは、「国民一億数千人」といったような「人数」で捉えるのではなく、あらゆる学歴、あらゆる性、あらゆる年齢、あらゆる業種の労働者…といったような、いわば「属性」で捉えられるべきである。

 学校教育のカリキュラムを強化すれば、確かに平均的な学力の水準は上がるだろう。しかし「皆の学力を上げよう」という試みは、教育の対象者を「勉強のできる人間」という「一つの属性」に統一しようとする試みであって、「あらゆる属性」を包括しようとするものではない。「あらゆる属性」を「あらゆる属性」のまま、普遍的に包括しようとするのであれば、仮に勉強に付いていけなくても、一人の人間として主体的に幸福を追求できるような環境作りを目指すべきだろう。教育というものはもっと広義に解釈されるべきであり、教育政策は決して「属性の統一」を目指すものであってはならない。「学校」という場や「学校」という制度の外にあっても、本来のわれわれは学び、実践し、社会を動かすことができる。いまこそ「豊かで幸福な暮らし」という普遍的な価値と社会制度の在り方とを比較して、「皆」の手で社会を再設計すべきではないだろうか。

 

 

(*1)「死ね!バカ!」これが指導? ~広がる“ブラック部活”~ | NHK クローズアップ現代( http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3847/1.html)

普遍主義としての「マニュアル対応」という選択

 

ネットでマニュアル対応というものが話題になっていました。マニュアルにも色々ありますが、今回は「客に確認をするマニュアル」のことです。(以下「確認マニュアル」)

より具体的にいうと、某おじさん芸能人方がテレビの番組内で「明らかに見た目が未成年ではないのに年齢確認の手続きを要求された」「ハンバーガーを注文するとき明らかに一人で食える量じゃないのに店内で食べるか聞かれた」という例を挙げて、どちらも「けしからんことだ」としていたことが波紋を呼び、主に反発の声を中心にネットが盛り上がっていました。

 

店員のマニュアル対応についての是非ってたびたび議論されますよね…

たびたび議論されるだけあってなんとも結論を出しにくいテーマなのですが、今回は「確認マニュアル」限定だったので、これだけなら擁護できるんじゃないかと思ってじっくり考えてみることにしました。ということで僕は「普遍主義」という観点から「確認マニュアル」に忠実な店員を擁護したいと思います

 

「普遍主義としてのマニュアル対応」を、お酒の年齢確認を例に取って説明してみます。店の運営側がお酒の年齢確認に対するマニュアルを作成したとき、僕はこれを「未成年への酒類販売防止という課題に対して、店の運営側が普遍主義的な対応を選択した」と捉えます。ここでいう普遍主義というのは「条件に関わらず誰にでも等しく同じ対応をする」ということで、「人間の裁量を介入させない手法」と言い換えることもできます。

この「普遍主義」ですが、裁量をするための線引きが難しいときに使われると考えてください。今回は「20歳を超えているかいないか」という線引きですが、どうでしょうか。もちろん年齢確認をする前の判断なので、線引きの材料は見た目だけですよ。明らかに老人みたいなのはわかる?本当にそうですか?一本の線を引くんですよ?本当に漏れがないように線引きできると言い切れますか…?

いま「いや、それでも老人みたいなのに関してはさすがに言い切っていいでしょ!」と判断した方、少し、ほんの少しでも思い切るような感覚がありませんでしたか?組織を運営する上でその「思い切り」ほど無責任なものはありません。その無責任さを背負うぐらいだったら、いっそ全員に一手間かけてもらって、確実な体制を作ろうというのが「普遍主義を選択する」ということなのです。要するに「確認マニュアル」をつくるに至ったのは「見た目で判断するためのマニュアル」がどうしても作れないからということなんです。

 また普遍主義について、「全体を個人の上位に置いた考え方」と説明されることがあります。そして「確認マニュアル」を導入しているのは、一定より規模の大きいチェーン店がほとんどだと考えて間違いないでしょう。お店を広い範囲に展開すれば、その分多種多様なお客さんが来ますね。純粋に「例外」に遭遇する可能性が高くなるのと同時に、利益の対象としての「全体」の比重が上がり、社会に及ぼす影響も無視できなくなってきます。そう考えると、僕はコンビニチェーンなどが確認マニュアルという普遍主義を選択するのはしかるべき判断だと思います。

 

人間不思議なもので、当然だと思っていることには腹が立ちません。是非多くの人が「普遍主義」に伴う一手間を当たり前のことと認識し、イライラせず世の中の利益に貢献してくれるようになることを願います。

 

それではまた。

 

 

緊急事態条項を巡る首相の答弁を検討する。1/19参院予算委

※2016/01/26に書いた引っ越し前の記事です

 

安倍晋三首相は19日の参院予算委員会で、自民党が2012年に発表した憲法改正草案の緊急事態条項について「国際的に多数の国が採用している憲法の条文だ」と述べ、緊急事態条項新設に意欲を見せた。
(中略)自民党草案には、緊急事態に法律と同じ効力を持つ政令を出すことができると記載。この条項について、社民党福島瑞穂副党首は「立法権を国会から奪うものだ。ナチス・ドイツの授権法と全く一緒だ」と批判した。首相は「限度を超えた批判だ。諸外国に多くの例がある」と反論した。(毎日新聞より)



と、こんなことがありました。 
今回はこのときのやり取りについて検討していきます。これによって自民党草案の緊急事態条項とはどういうものなのか、少しは理解が進むのではないでしょうか。そのためにまず、「緊急事態条項」一般について、簡単に説明します。

災害やテロなどが起こった場合には、政府の素早い対応が求められますよね。あまり悠長に対応していては、被害が拡大する恐れがあるためです。軍(自衛隊)を動かす必要があったり、市民にあまり自由にウロウロされては困るので移動範囲を制限したり、ケースによって適切な対応というものは様々あります。しかし自衛隊をいつでも好き勝手に動かされては困るし、移動の自由は基本的人権にあたるので原則として制限されません。ですから「こういうときにはこういう理由があるからこういう対応をします」ということをあらかじめ定めておくんですね。これが政府の対応の基本形になります。ただ当然ですが「あらかじめ想定しておく」というのにも限度がありますから、なかには既存の条件では必要な対応ができないというケースもあるかもしれません。新しく条件を定めることで対応できるようにはなるけれど、事態は緊急を要するのでいちいち通常の手続きで議会を開いていられない…
そんな状況に対する策のうちの一つが「緊急事態条項」という考えなんですね。



首相のやり取りについての検討に戻りましょう。

●「国際的に多数の国が採用している憲法の条文だ」という言い分は趣旨を考えると間違いである

「趣旨を考えると」とはどういうことなのか説明します。
まず「緊急事態条項は国際的に多数の国が採用している」これは
間違いではありません
しかし「自民党草案のような形での緊急事態条項」となるとこれは
極めて異例で、度を越えています
そして今回のやり取りの趣旨とは、あくまで自民党草案に盛り込まれた緊急事態条項について言及するものです。したがって「趣旨を考えると」首相の発言は明らかな間違いになるんですね。果たして首相は趣旨を組み取れなかったのか、海外の例について知識がなかったのか…

では肝心な自民党草案の緊急事態条項が異例であるとする根拠は何か。
自民党の定めたものでは、緊急事態だと認定した場合、政府は法律と同等の効力を持つ命令(独立命令)を出すことが可能になります。
ここで海外の例を見ると、緊急事態すなわち「議会をいちいち開いていられない」というとき、特別委員会程度で対応できるようにしている国や、立法ではなく個別の行政措置を取ること許可している国は確かに少なからずあります。しかし自民党草案のように、立法権を丸投げして、なおかつそこに議会も委員会も関与しないというような規定は国際的に見て極めて異常で、白紙委任になる恐れを孕んでいるという点で大変危険です。これを「他の国と同じ」などと言われては、たまったものではありません。

☆☆☆

この記事を読んでくださっている方の中には、上にある緊急事態条項についての説明を見た際、「たしかにそれは必要かも」と思った方もいると思います。しかしその説明で「策のうちの一つ」と言ったのが実は大切なことで、国家緊急権に対する向き合い方については色々なものがあるんですね。現在の日本も何も策が無いというわけではなく、立法が必要な緊急事には政府が国会の召集権を持つようになっていたり、それが衆議院の解散中であれば参議院の緊急集会で代行できるようになっていたりと日本なりのシステムを構築しています。よく誤解されるんですが緊急事態についての規定が無いわけじゃないんですよ。それで十分なのかという議論はありますが、いずれにせよ、少なくとも自民党改憲草案の緊急事態条項については未熟で危険なものであるということが明らかです。
今回の緊急事態条項に限らず、よく自民党の人などは憲法改正を促す文句として「当たり前のことをできるようにしよう」みたいなことを言うんですが、じっくり検討してみると問題が見つかるというケースが非常に多いです。とくに憲法というのは解釈の余地というものがありますから、一見すると最もらしいことを言うのが簡単なんですね。僕ら個人はこれから更に増えるであろうそういったある種の「ウマい話」に対面したとき、すぐに問題点を指摘できなくてもよいので、まずは鵜呑みにせず疑ってみることが大切だと思います。僕もこのブログを書くことで、ささやかな範囲ですが手助けができればなぁと思っています。自民党憲法草案についてはまだまだ色々な変更点があるので、また記事を書くかもしれません。

それではまた。

「理屈の切れ目が縁の切れ目」の人間関係

※2015/12/20に書いた引っ越し前の記事です

 

あなたは「金の切れ目が縁の切れ目」という人間関係をどう思いますか?


唐突過ぎましたかね…うーん、少し条件を加えて言いなおしましょう 。

ビジネス上の関係を除いた、いわゆる友人関係や恋人関係などを「人間関係」とした場合、
あなたは「金の切れ目が縁の切れ目」という人間関係をどう思いますか? 


―恐らくあなたがホリエモンでもなければ、「それでもいい」とは考えないだろうと推測します。
その理由については、あなたが質問をされたときになんとなく浮かんだ感覚を思い返していただければ十分です。なにしろこれは個人の感覚の問題なので…

 

さて、本題はここからです。
僕は上で挙げた「金の切れ目が縁の切れ目」という人間関係と同様に、 「理屈の切れ目が縁の切れ目」とでもいうべき人間関係に疑問を抱いています。

まず「理屈の切れ目」とはどういうものか説明しましょう。
「理屈の切れ目」とは、「理屈では擁護できないという状況」のことです。例を2つ挙げましょう。

あなたの友達(仮にAさんとします)が、あるとき人に迷惑がかかるような行動を取ってしまったとします。やがてそれを目撃していた人から噂が広まり、周囲ではAさんに対するちょっとした叩かれムードが発生してしまいます。さてAさんはあなたの友達ですが、人に迷惑がかかる行動をしていたのは事実であり、Aさんを叩く意見も至極正論というべきものでした。どうやらAさんを理屈で正当化することはできそうもありません。このときあなた、それから周囲の人にとってAさんは「理屈の切れ目」にあります

もう一つの例です。
あなたのクラスメイトのBさんは、皆と同じようにSNSをやっています。しかしBさんはしばしばそこで痛々しい発言をしてしまう人で、周囲の人はなんとなく違和感を覚えているのでした。あるとき話の中で一人がついにその違和感を口に出し、それを皮切りにそれぞれが思いを爆発させ、話題は痛々しさの指摘で盛り上がってしまいます。確かにBさんの発言は痛々しく、中には人を馬鹿にしたような発言もあったため、叩かれてもおかしくはありませんでした。このときもあなたにとってBさんは「理屈の切れ目」にあります

これら2つとも多対一で叩かれているという状況から、いじめの例と捉える方もいると思います。それも間違ってはいないのですが、状況を考える上で押さえておいてほしいことがあります。
それは「理不尽ないじめではない」ということです。AさんもBさんも、なんとなく気に食わないから叩かれているわけではありません。さらに周囲の叩きも無茶苦茶な罵倒などではなく、理屈の通ったものなのです。実際にAさんもBさんも、叩かれる原因となった一点だけが無かったことになれば、普通に楽しく過ごせていたはずの人間なのです。「いやAさんとBさんの普段の人格の設定なんて知らないし、後で付け足されても…」と思うかもしれませんが、実際にごく一般的な人が一つの問題だけでボロクソ叩かれてしまっている状況があるのです。そう、「理屈の切れ目が縁の切れ目」という空気は今やそこらじゅうで見受けられます。


僕はこれに疑問を抱いていると言いました。
なぜか。率直に言って「過剰さにモヤモヤするから」です。

上の例を見て、なんだかモヤモヤとしませんでしたか?僕はめっちゃくちゃモヤモヤします。
友達が理屈で擁護できなくなったからどうにもできないという、自分の意思が理屈に引っ張られている感じがまず嫌ですね。ビジネスのような、目的を中心として集まる関係なら理屈どころかお金の問題でも切り離すべき時がありますよ。でも友達関係、恋人関係なんて、別に仲良くしたいと思えば仲良くすればいいし、好きなら好きでいればいいじゃないですか。あるいは仲良くしたいとは思わないまでも叩くのが憚られるなら、叩こうって気持ちなんか捨ててしまえばいいんですよ。「お互いがこうと決めてさえしまえば理屈なんて無視して事を進められる」という性質は、使い方次第で人間の良いところになるものだと僕は思います。

え、でも問題は問題なんだから放置するのは甘やかしなんじゃないの?と思った方、その通りです。別にいいじゃん~とかいって見過ごすのはお互いの為になりませんよね。問題点はきちんと理解しておく必要があります。きちんと理解し、叩かれるに至る理屈を把握したうえで、行動は自由に選ぶということが大切なんです。そこに単なる甘やかしとの違いがあります。というかそもそも問題があったとして、それを叩いて潰してしまうのは荒治療のような気がします。まるで結核を針で治していた頃みたいな…

「いや、俺は理屈で間違っていることは叩きたくなっちゃうわ」という方、それは長い目、あるいは広い視野で見たときに合理的ではありません。まず魔が差すということは誰にでも起こりうることだし、叩ける部分というのも探そうと思えば誰相手でもどうとでも見つけられるのが一般的です。(綺麗ごとのようですが本当にそうです)
つまり着火されるきっかけと、それが燃え上がる燃料というのはセットになって世の中に溢れているということなんですね。この「火と燃料」が一度付いてしまうと必ず惨事になるということであれば、自分も周りも不安ベースで生きていかざるを得なくなるでしょう。必要に応じて理屈を”敢えて”覆すことのできる人間関係というのは、そこに安心感をもたらすためにあるのです。仮にそれ無しで不安を抑えようとすれば、ひたすら当たり障りのない行動、言動ばかりを選択することになり、今度は退屈が訪れることでしょう。ここまで把握した上でそれでも叩くのならそれはあなたの自由です(もちろん度が過ぎれば権利侵害になるので自由とも言えなくなります)が、僕も僕の自由を以てやめるべきだと言わせてもらいます。


☆☆☆

さて、この「理屈の切れ目が縁の切れ目」という現象、実はネット上で非常によく見られるんですね。これがあるものをもたらしています。
ちょっと引っかかる所があるかもしれないSNSの例を出したのもそのためでした。「Aさんがたった一度魔が差しただけであったのに対しBさんの行為は継続的な書き込みであり、後者は全体的な人間性を評価されてもおかしくないのではないか?」ということです。
その点についてまず押さえておいて欲しいのが、「何かに染まったとき、ネット上の文章というのはとりわけその影響を受ける」ということ。仮にリアルで対面した場合、話し方や表情、咄嗟の反応など、細かい物から目に見えない物までその人を表現する材料というものは絶えず現れ続けています。それこそ文字情報だけのネットとは比べ物になりません。そして文字情報という「一部分」は、容易にガラリと変えることができるという性質を持っているのです。ネットでよく喋るあまり「ネット上では本性が出る」とか言われてる人をちょいちょい見かけますが、いささか短絡的な考えだと思います。ここでのBさんも同じで、一部の染まりやすい部分が染まってしまったに過ぎません。
以上を踏まえて、Bさんの行為も「ひとつのきっかけ」に過ぎないということをわかっていただけたでしょうか。 


では話を戻します。
ネット上に蔓延する「理屈の切れ目が縁の切れ目」という空気がもたらすもの、それは

「自分の方が高次元にいる(お前のいる地点は俯瞰して見ることができる)と主張しあうくだらないマウンティング合戦」です。

これ、お互いが切磋琢磨してどんどん高度を上げているということなら良いのですが、実際にやっていることは「こっちが正論だ」という認定を重ねるだけのイタチごっこで、「こっちが正論だ」と書かれた2枚のコインの上下をひたすら入れ替えているようなものです。高度になんてなるわけがありません。
彼らが気にするのは「正論(とされる)側にいるかどうか」であって、それを正論たらしめている事実関係などは大した問題にはなっていません。彼らが最も気にかけるのは「いかに支持すべきか」よりも「いかに間違っていないか」であり、変なことをするヤツがいる陣営は絶対に切り捨てます。つまり彼らは議論においてほとんど賛成派になることはなく、基本的に反対派か、反対派の反対にしかならないのです。しかし「スタンス」というのはいわば「誰でも参加できる集団」であり、「誰でも参加できる集団」の中には往々にして過激派みたいな変なヤツがいるものです。すると彼らは大概「どっちもどっち」というスタンスを取るのですが、世の中「どっちもイヤ」では進まないことがほとんどなわけで、僕は彼らのようなタイプを一言で「無能な潔癖症」と呼んでいます。

 
twitterをやっている人なんかは、よく「人の行動、発言をパターンに当てはめて茶化したようなツイート」を見かけませんか?「あるあるネタ」の延長みたいな感じのヤツです。
これはまさに「お前(=パターンに当てはめた人物)のいる地点は俯瞰して見ることができる」というマウンティング合戦の一手そのものです。恐らくこういったツイートを見た人はそのパターンの行動、発言を避けるようになり、場合によっては一緒になって茶化すことで「自分は違う」「自分もこのレベルの人間の思考は読めている」という信号を出します。こういったことを繰り返すのがネット流マウンティング合戦なんですね。実に不毛でくだらない上、人々をくだらない理由で委縮させているという点で僕みたいな人間からすると迷惑です。これに流されないためには、理屈を"敢えて"覆すこともできる人間関係を作りあげる他ありませんなぜならネット上のマウンティングというのは既に述べた通り「こっちが正論だ」と言い合うもので、そのためには必ず理屈を用いることになるからです。




長くなりましたが読んでいただきありがとうございました。
それではまた。

安保法案・総まとめ

※2015/09/23に書いた引っ越し前の記事です


こんにちは。今回は「安保法案を巡る論理関係の整理」をテーマに、全体のおさらいをするような記事を書くことにしました。結構長いですがそのぶん気合も入っているので、どうかお付き合いください。。

☆☆☆

ご存じの通り、野党やデモ隊の抵抗むなしく安保法案は既に採決されてしまいました。
…では、これで安保法案の話は終わりでしょうか?いいえ違います。むしろ大事なのはこれからですよね。
これまで戦争法案だなんだと騒がれていましたが、僕に言わせればこれはジワジワやばい系の問題なので、すぐにその危険性が露呈するようなことはたぶん起こらないでしょうし、きっとしばらくはいつものような平穏な日々が訪れると思います。恐らくメディアも安保法案を取り扱うことはほとんど無くなるでしょう。しかし、こんな大きな出来事をここで「終わったもの」としてしまうのは非常に勿体ないことです。もともと自治マインドが致命的に欠落していた日本人にとって、今回のことは民主主義や立憲主義を考える上で非常に良い教科書になります。悪政を天災のごとく捉えるのもこれまた日本人の悪い癖ですから、安保法案の採決を去った嵐と捉えることなく、是非とも今一度おさらいをし、まずは次の選挙に望む上での心構えとしてはいかがでしょうか。もちろん僕自身もまだまだ勉強中のつもりでいますので、ご指摘等あればしていただけると助かります。

☆☆☆


~安保法案の問題点~



大きくまとめると主に以下の3点になります。

  1. 法的安定性の問題(違憲の疑い)
  2. 行政権限を法理上無制限に拡大できる「存立危機事態」の存在
  3. 安全保障として弱い


これらを順に説明していきます。一応①の説明だけでも賛成派を「詰み」に近い状態に追い込むことは可能なため、②③は「百歩譲って合憲だった場合」の話になるのですが、より深く理解するために必要なので併せて言及します。

①法的安定性について

安保法案が違憲である、という話は今年6月の憲法審査会で自民党推薦の長谷部恭男氏を含む参考人憲法学者全員が「違憲だ」と述べたことから火が付きましたね。全員一致というわかりやすさに加え、オウンゴールのような展開にはメディアも食いつきます。安保法案への疑念が一気に浸透しました。
またその後複数のメディアがもっと多くの憲法学者にアンケート調査をしましたが、ほとんどの学者が違憲と答えています。これもよく知られていますね。そしてさらに元内閣法制局長官に加え、最高裁判所の元長官(!)まで「違憲だ」とコメントしているんです。もちろん最終的に判断するのは違憲訴訟を起こされたときの最高裁ですが、これらを一私人の発言だと切り捨てるのはいかがなものかと思います。それに日本には憲法裁判所がありませんから、「可決されてから最高裁に判断させればいい」なんて考えはあまりふさわしくありません。 

さて、しかしながら「学者の大多数が言っているから」というのはそれ自体は根拠ではありませんよね。まぁ「学者が言っているからというのは根拠にならないから違憲かどうかもわからない!」と言う人はそれを言う前になんで違憲と言っているのか内容まで調べるのが普通なんですが…せっかくのびのびとブログにまとめているので今回は僕の方から歩み寄るとしましょう。。


ではまず、憲法9条を見てみます。

第九条   日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
○2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

順番に考える上で最初の前提になります。まず9条によって武力の放棄を約束していますね。つまり個別的、集団的自衛権ともに放棄している状態からスタートするわけです。

しかし、次に前文の一部と

(前略)
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
(後略) 


13条を確認してみると

十三条   すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。


ざっくりいえば「最低限国民を守る責任がある」と書いてあるわけです。
そこで、個別的自衛権は認めようという話に解釈されるんですね。
しかしこの理屈、「親密な関係にある他国を守る」という集団的自衛権にまで及ぶものでしょうか?
…それは無理がありますよね。憲法はネガティブリストというよりポジティブリスト、つまり「禁止されていないことはしていい」というものではなくて「書いてあること以外しちゃいけない」という性質のものです。それを踏まえて考えれば答えは明らかでしょう。
また、個別的自衛権の「自国が攻撃を受けた際に発動」という基準は明確で客観的に判断しうるものであるのに対し、集団的自衛権は解釈によって相対的に変化する基準が多すぎます。これについては存立危機事態の問題点と直結するので後ほど説明します。

ここまでが安保法案を「違憲」だとする論理でした。
では次に「合憲」だとする学者(と政府)の言い分を検討しましょう。

主な言い分はこうです。

集団的自衛権砂川事件判決最高裁に認められている
・そもそも自衛権は個別的、集団的ともに国際法ですべての国家に認められている
・存立が脅かされている事態での集団的自衛権の発動は自国民を守ることとイコールである

まず一つ目、砂川事件判決を根拠とすることについて。
砂川判決というワードは学者の主張のみならず政府の説明にも頻繁に出てきましたから、これが根拠とされていることには心当たりのある人も多いのではないでしょうか。結論から言いますが、この判決は全く根拠になっていません。これはそもそも米軍基地の駐留を認めた判決であり、集団的自衛権を認めるものではありません。たしかに判決文には「自衛権」というフレーズが出てきますが、文脈を考えれば集団的自衛権についてはむしろ合憲性から遠ざけています。今回の法案を巡ってはこういう「それっぽいことを言っているが中身はデタラメ」という箇所が要所要所で登場しますが、国民をナメているというのはこういう部分なんですね。

そして二つ目、集団的自衛権国際法で認められている固有の権利だ!という主張について。
日本は国際法で認められている権利を憲法で縛っています、以上。これ以外言うことはありません。仮にも学者がこんなことを言うんだからお笑いです。まぁ実際のところこの主張は砂川事件判決とのコンボみたいなものなんでしょうが、上で述べたように 砂川判決自体が根拠として否定されているので意味がありません。

最後に三つ目です。
「存立が脅かされている事態」というのは、存立危機事態のことです。ですからこれも存立危機事態が問題である理由をそのまま共有することになります。なのでまたまた詳しいことは後ほどということになりますが、敢えて一言でいうなら「具体的な例が一つもないからダメ」。「確かにあなたのいう条件なら集団的自衛権を認める理屈に一定の筋が通ることになるが、そもそもそんな条件が見つからない」ということです。

以上、「合憲だ」という主な主張に対する反論です。


さて、それぞれの立場の論理を整理することができました。
ここまで具体的に言えば流石に「過剰に騒いでいるだけ」と一蹴されることは無いと信じたいですね。。
では改めて言いましょう、安保法案は違憲です


違憲だと何がまずいのか
違憲だからってなにがいけないの?」って質問、冷静に考えたら結構ヤバイですが、とはいえ「ダメだからダメ」というのは良くないですね。だから説明します。法的安定性が失われるからダメなんです!
…しかし馴染みのない人にとっては「法的安定性」という言葉自体ピンとこないですよね。ですからこちらについても簡単に説明しましょう。

ほうてき-あんていせい【法的安定性】
法律の制定・改廃や適用が安定的に行われ、どのような行動にどのような法的効果が結びつくか予見可能な状態 (出典:デジタル大辞泉


要するに「一度定まった憲法や法律の解釈は簡単に変えてはならないという原則」のことで、法的安定性が失われるとはつまり「定めた憲法や法律の意味がその場その場でコロコロ変わることを許している状態」になることにほかならず、こうなってしまえばもはや憲法や法律の重みや価値がなくなり、ルールとして機能しなくなります。これは由々しき事態です。それこそ国の存立を脅かすほどに…

◎「違憲かもしれないけれど、安保法案の政策パッケージには賛成だ」という方へ
ネットなんかを見ていると、違憲の可能性をハッキリと否定しないまま「この法案は必要なんだ!だからなんとしても通すべきなんだ」と考えている人に少なからず遭遇します。まぁこの法案はこれから言う②③の理由で政策単体で見ても酷いんですが、とにかくそういう人へのメッセージです。よく聞いてください。政策に賛成でも、今回のように真っ当なプロセスを踏んでいない場合は反対すべきです。なぜなら「せっかく法律を通しても今後政権が変わればまた簡単に変更されてしまうことになるから」です。リベラルな党が政権を取れば元に戻るどころか真逆に振れるかもしれません。法的安定性が失われるとはそういうことです。本当に必要だと思うのなら、改憲手続きに進まなかったことを厳しく批判するべきでしょう。

改憲していたら間に合わない!中国の脅威が!
これを言う人も結構いるんですよね…まず「中国が攻めてくる」という緊急の事態にはどのみち個別的自衛権で対処することになりますから、今回の安保法案は関係ありません。また中国とアメリカはかつての米ソ関係とは違い経済を中心に相互依存関係にあるので、武力衝突をする可能性は著しく低いと言えます。



行政権限を法理上無制限に拡大できる「存立危機事態」の存在

お待たせしました。後ほど…後ほど…と散々焦らした「存立危機事態」のお話です。
ではまずそもそも「存立危機事態」とはなんであるのか、というところから説明しましょう。

日本ではもともと自衛隊の活動について、「○○事態」という基準を法律に設けることで脅威度等を段階に分けており、それによって客観的な判断で自衛隊を動かすことを可能にしていました。
そして今回の安保関連法案はそこに新たな基準をいくつか追加します。そのうちの一つが「存立危機事態」なんですね。ではその自衛隊の行動基準について、わかりやすいように表をつくってみたのでまずご覧ください。(オレンジ色の背景になっている部分が新たに追加されたものです。)

自衛隊の行動基準
これを見てわかるように、存立危機事態は武力攻撃も可能とする条件なんですね。
しかし「どんなケースであるか」という欄が「???」になっています。いや、まぁこの表は僕の手作りなんですが、決して悪意からこうしたわけではありません(笑)具体例が本当に一つもないのです。首相をはじめ自民党関係者はただ一つだけ「ホルムズ海峡の機雷掃海」という例を挙げていましたが、それもつい先日首相自ら取り消されました。じゃあどうやって判断するんだよ?という話ですよね。武力攻撃もできてしまうほどのものなのに、その条件が謎に包まれているなんていくらなんでも怖すぎます。…ということで、これまで野党の議員や記者が同じ質問をしています。すると毎回、「武力行使の新3要件に基づいて判断をする」と返ってくるんですね。なるほど、ではその武力行使の新3要件を見てみるとしましょう。


・わが国に対する武力攻撃が発生したこと、またはわが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること
・これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと
・必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
(出典:防衛省HP) 


実に「それっぽい」ことが書いてありますね。しかしこういうもの看過してはいけませんよ…ということで一つずつ確認していきましょう。いいですか、ここで求められるのは「客観的に判断が可能であるか」つまり「誰が見ても同じ結論が導かれるか」ということです。


まず一つ目の要件から。
>わが国に対する武力攻撃が発生したこと…
コレは武力攻撃発生事態にあたります。「攻撃されているかどうか」は見れば誰の目にも明らかなことですよね。よって客観的に判断可能です。
問題はここからです。
>わが国と密接な関係にある他国…
密接な関係って、なにをもって「密接」とするんでしょうか?仲が良いということなのか、経済的なことなのか…たとえば中国とは仲は悪いかもしれませんが、経済などでは密接な関係にありますよね。誰もが同じ答えを出すとは思えません。
>わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険…
これが存立危機事態のことですね。しかし結局抽象的すぎます。「他国が攻撃されていることで、日本人の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆されるケース」ってなんですかね(笑)ちゃんと納得できる「明白な」例を出していただきたいものですが、既に述べたように一つも挙げられないですからね。無茶苦茶です。

そして二つ目。
>他に適当な手段がないこと
いかにもなことが書いてあるように見えますが、どの程度で「他に手段がない」とするのか、判断するのは政府です。つまり政府が「やれるだけはやった」と言ってしまえばそれでこの条件はクリアされてしまうわけです。絶対的な基準とは言えません。

最後に三つめ。
>必要最小限度
これも「必」「最」「限」とかあるので字面的にはいかにも絶対的な感じがしますが、結局は二つ目と同じことですね。「必要最小限度」についての具体的な基準が無い以上、相対的なものになります。



と、このように「武力行使の新3要件」とは曖昧で抽象的で、政府が「こう導きたい」と決めてしまえばそれに合わせていかようにも解釈できるんですよ。
つまり、
「存立危機事態の基準がわからない」と言われて用意した基準がこれまたわからない
という何ともふざけた実態になっているんですね。基準が定まっていない法律を通すというのはとんでもなく危険なことで、白紙委任状を渡すことに等しい行為であるといえます。

要するに「存立危機事態」ってのは、「アレ」っていってるのと同じことなんですよ(笑)で、「武力行使の新3要件」も同じように定義が曖昧なので「コレ」とか言ってるのと同じです(笑)
つまり「自衛隊に武力攻撃をさせたい」と思ったら、「あ~これはアレだわ」「アレだからしょうがないな」でできちゃうワケです。で、「アレってなんだよ」って聞いたら「アレはコレだよ」って返されて、「コレってなんだよ」って聞いたら「総合的に判断する(原文ママ)」ですからね…なんてこった。。。



では、そんな無限の可能性を持った存立危機事態でなにをするのかということですが…
たとえばデモなんかでは「戦争したがる総理はやめろー!」とか言われたりしていますが、安倍首相がもしも本当に戦争したいと思っていたとしたらとんでもないことですよね。なんせ武力攻撃をいつでも許可できるんですから。しかし流石の安倍晋三といえども戦争大好きな狂人というわけではないでしょう。それに、安倍首相はこの存立危機事態が法理上は武力攻撃し放題だということを指摘された際には毎回「われわれはそのようなことを想定していない(やらない)」という言い訳をしているんですね。この言い訳は「法理上可能」ということに対しての反論としては全くトンチンカンなものですが、これによって少なくとも現安倍内閣では言質を取られ過ぎているので乱暴な使い方はできないでしょう。
じゃあこの法案のヤバさが真価を発揮するのはどこなのか?後の内閣…という考えもありますが、やはりなんといっても行政官僚の権益の拡大という土俵でしょう。しかもこれ、行政官僚が自分のやりたいことをやるならまだ感情としては怒りぐらいですが、結局はアメリカの言うこと聞き放題、ケツを舐め放題といった使い方しかされないもんだから情けなさも加わってなんとも悲しくなりますね…「アーミテージ・ナイレポート」というものを調べていただければ、いかに今回の安保法案がケツ舐め放題のために作られたかよくわかります。。



③安全保障として弱い

さぁこれで最後…というところなんですが、よく考えたら以前に記事を書いてたことを思い出しました。
ということで過去の記事、

m1y4.hatenablog.com

をご覧ください。
安保関連で最初に書いたものなので拙い部分が目立つかもしれませんが、ここに書き直すと記事が肥大してしまう上、あまりにも二度手間になってしまうのでご勘弁願います。。




さてさて、ここまで読んでいただきありがとうございました。
僕は反対派として記事を書いていますが、今回は特にアイデオロジカルな論だと思われないようにないように気を使いました。引用が多くなったのもそのためで、また引用先も防衛省など公式のものを持ってくるように心がけています。賛成派のひと、読んでくれてるかなー(笑)


それではまた。



無生物のロール・プレイ

※2015/08/25に書いた引っ越し前の記事です

 

今回は「だからこうだ」という結論が出るような話はしないと思います。さっき風呂入ってたら思いついたことをダラダラと書き連ねる感じです。その流れで落としどころを見つけるかもしれませんが。。


☆☆☆

人が印象操作(演技)をする生き物であるとする分析は数多く存在しています。
ユングのペルソナ、ゴッフマンのドラマツルギー、日本であればハレとケの概念なんかはギリギリその部類でしょうか…


印象操作の善悪については賛否両論ありつつも、われわれの日常に印象操作が根付いていることは疑いようもない事実でしょう。仕事、友達、家族、先輩、後輩…僕らの立場はたった一日の間にもコロコロ変わり、立場に応じてそれぞれの役割を演じ(ロール・プレイ)ます。


さて、ここまでは文系ならたぶんみんな知っている話。あるいは学術的な理論として知らなくてもすぐピンとくるでしょう。そして僕が風呂で思い浮かんだことというのはこれを延長したようなもので、それがすなわち今回のタイトルにもした「無生物のロール・プレイ」という考え方でした。

☆☆☆

では、簡単にわかってもらうための話をします。

あなたは今、自宅からこのブログを見ているでしょうか?もしそうだとすればズバリ申しあげましょう、あなたのいる場所は、「あなたの自宅」という演技をしているだけで、本当は「あなたの自宅」ではありません。そう、あなたは石膏やコンクリート、あるいは木材などで都合よく囲った空間に「家」という役割を与えて演技させているだけにすぎない!!!

―ハイ、極端ですね。極端だし、たぶんこんなこと偉そうに訴えられたら「コイツは役に立つようなこと言わないだろうな」って思うんじゃないでしょうか。そして恐らくそう感じる理由は、「家」という存在は既に法律や社会の仕組み、我々の生活基準と複雑に絡み合っているという事実によるものではないかと推測します。つまりそういった複雑な事情を踏まえずに物理的な事実だけ突きつけられても、世間知らずの役に立たない考えにしか映らないわけです。なにより「家」は役に立っていますよね。最も原始的な段階では雨風を凌ぐため、現代なら「不動産」という文字通りに財産としての役割もあるし、共同体の管理をするためにも使われています。


ではなぜあんな極端な話をしたのか。
僕は別に「家は物質の集合に人間が役割を与えたものだ」と言うことで「家」の意味を否定したかったわけではありません。上で述べたようにそれが役立つことも、今の僕に不可欠であることも知っています。しかし「極端な話」を一蹴するつもりもまたありません。僕は僕の言う「無生物のロール・プレイ」的な認識を確かに持っています。

☆☆☆

赤い文字で世間知らず、と書きました。世間を知るって、いったい何なんでしょうか。僕には、ほとんどの人が「役割」の部分だけを見て「世間を知る」に至っているように見えて仕方ありません。そしてそうやって「世間を知り」適応した人間は、自分が物に付いた「役割」ばかりにこだわるのと同じように、自分自身のことも見てくればかりにこだわるようになります。
家の例を出したとき、その役割は合理的な成り立ちが背景にありました。これは家に限らないことで、物の役割というのはそれなりの理由があって割り当てられていることがほとんどでしょう。そして物の「役割」ばかりに影響されている人は、自分の「役割」にも理屈を求めます。物がそうであるのと同じように。
最後まで理屈に適った生き方ができれば問題はないのですが、コレと決めた生き方の途中で躓き挫折してしまうことは珍しくありません。そうすると文字通りその人にとっての生きる理由がなくなってしまいます。そんな風に絶望して何もしなくなってしまう人を見てきました。

☆☆☆

人間は無生物にも役割を与えることで社会を回しています。無生物が役割を演じることは社会を回すために不可欠であり、社会を回すことで僕らは多大な利益を享受しています。しかしそれでもなお、演技は演技であるということを忘れてはいけないと思うのです。「義務」なんて名の付く言葉がありますが、そんなものも「絶対である」という役割を人間が演じさせているだけに過ぎません。それでも敢えて守るのは、ただそれが巡り巡って利益になるような仕組みを作ってもらえているからです。だから本当に追い詰められてどうしても辛ければ、「義務」であっても守る必要はないと思います。今の社会には「生きる意味」に縛られて辛くなっている人があまりにも多すぎます。勝ち組、負け組なんて言葉を聞いて育ってきたからでしょうか。なんにせよ生きる意味を無くすということは、決して消極的になるということではありません。積極的になるのも消極的になるのも”敢えて”やれば良い。僕たちは本当は自由で、敢えて役割の世界に身を投じているのだという自覚を共有できたとき、きっと社会は明るくなると思うのです。

安倍談話を検討する

※2015/08/15に書いた引っ越し前の記事です。

 

僕は外出中で中継を見られなかったので、産経新聞の方で全文を読みました。

周りを見ると「なかなか良かったんじゃないか」という意見が多い印象ですね。特に「子や孫の世代まで謝罪する宿命を背負わせてはいけない」という宣言に好印象を抱いている人が多いみたいです。首相の言うように、いまや8割以上が戦後生まれですしね。よくぞ言ってくれたと感じた人も結構いたんじゃないでしょうか。また「自分たちが選んだことじゃないのに負担しなければならない」という理不尽さは、ちょうど僕の世代にとってはゆとり教育を押し付けられたことへのフラストレーションと似ていたりします。


僕はどう思ったか。

僕も場面によっては「若者の理不尽な負担について力強く訴えてくれる頼もしい大人」の姿に、感動したかもしれません。要するに個人レベルなら真っ当な主張なんですよね、コレ。しかし国と国、あるいは国と国際社会という立ち位置では話が別になります。今回の談話はこれまでの談話とは違って閣議決定をし、政権の意向として明確に発表されましたが、そのこともまた"国と国"感を強めることへの追い風となっています。新しいことを言うからこそしっかりと閣議決定したという見方は、内容が適切であればこそ意味があるものの、今回は悪い方向に働いたというのが僕の考えです。まぁ、直してほしいのは発表形式ではなく内容の方なのですが…


さて、改めて全体通しての感想ですが、一言でいうとモヤモヤしました(笑) 
原因は何かというと、「日本の国体は戦前から変わっていないから」これに尽きます。
敗戦してもなお国体が護持され続けていることについては白井聡永続敗戦論でも読んでいただけるとありがたいんですが、要するに日本はずっと変わっていないうえに国民にその自覚が全くと言っていいほど無いんです。色々な国の思惑や行動との複雑な絡み合いがあって今に至っているのに、今は今、昔は昔として個別に認識している人間のなんと多いことか。今の社会は突然今の形で現れたわけではありません。「お前が生まれてから世界が始まったわけじゃないんだよ」って思います(笑)日本に足りていないのって謝罪と賠償ではなくて国民の自覚だと思うんですよね。というか、中韓謝罪と賠償をし続けたってキリがありません。キリがないので中韓のヘイトに走る人もいますが、日本が過去を清算できていないのは事実です。国民は形式的な謝罪と賠償で過去の清算ができていると思い込み本来あるべき認識から離れ、中韓はいつまでたっても許してくれないという悪循環。今回の談話で未来志向的と評価された、日本が独立性を持てるような方向へ主張を展開することには僕も賛同できるのですが、国民の適切な認識がないままそれをやっても厚顔無恥な印象の方が勝ります。僕はその厚かましい感じに酷いモヤモヤ感を覚えました。
これらを踏まえて、最初に触れた「若者に謝罪の宿命を~」という部分への僕の結論を出します。

「少なくとも既存のプラットフォームにおいて、国や社会という単位での責任を個人の入れ替わりで清算できるとする訴えはナンセンスである」

果たしてそれ自体が善であるのかどうかは別です。これから先、社会の在り方次第では無意味になる可能性も十分にあります。しかし"現在のプラットフォーム"ではこうした認識が適切であると僕は考えます。そして僕らは今のところそのプラットフォームに従うしかない。


その他の部分では日露戦争をやたらと美化していた所とかが気になりましたかね。それと、談話そのものの検討からは外れますが「今回の談話で言っていることと安倍政権がやっていることに矛盾がある」という点も当然ながら押さえておくべきでしょう。

テレビ等で騒がれていたのは専ら「おわび」「侵略」等のキーワードが入るかどうかという点でしたが、僕はこれについてはこだわりすぎかなぁという気がします。確かに明文化して引き継いでいくものなので、表現を変更して解釈の幅を与えるとじわじわと伝言ゲームのように修正できてしまうという恐れがありますが、そもそもそういう役割は談話でなくともできるのではないかなぁと思うのです。談話については歴史修正を防ぐ役割よりも、国際社会に対する意思表示としての役割を優先すべきだと僕は個人的に考えます。そしてその意思表示は「日本が言いたいことを言うもの」ではなく、「日本がやりたいことをやるために他国へ働きかけるもの」として認識すべきであり、適切な働きかけは必ずしも一次的に日本にプラスになるような言動とはかぎらないのです。

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