みやめも2

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「教育」の再考③——脱ゆとり教育の正体

 前回の記事(「教育」の再考②——ゆとり教育とはなんだったのか - みやめも2)の続きです。

 

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Ⅲ 「脱ゆとり」教育改革

 「ゆとり教育」の後、2008年に改訂された新しい学習指導要領は、ゆとり教育から脱却したということから「脱ゆとり教育」と称され、小学校では2011年度、中学校では2012年度、高等学校では2013年度から完全実施されました。この「脱ゆとり教育」は、「ゆとり教育」から「生きる力」というスローガンを引き継いではいますが、その具体的な内容については教育内容の厳選等を行った前回の改訂とは打って変わり、授業時間の増、小学校外国語活動の導入など、一見すると「詰め込み」への回帰ともとれるような手段が取られています。この「詰め込み」的な手段と「生きる力」という目標との両立が意味するもの……それは、OECDPISAテストを正当性の基盤とした「新学力テスト体制」をベースに、「生きる力」として求められる「単純な知識にとどまらない能力」、すなわち応用力や表現力、コミュニケーション能力などと呼ばれるものを、「学力」として「詰め込もう」という戦略でした。「ゆとり教育」の掲げた「生きる力」がその「目的・意味合い」において「技術」としての性質を持っていたのに対し、「脱ゆとり教育」は「生きる力」という目的に向かうそのプロセスまでもが徹底して「技術」性で満ちていたのです。

 

中教審自身が中教審答申の「生きる力」と同じものだという「人間力」を提起した内閣府設置の人間力戦略研究会(市川伸一座長)の報告書は、人間力を「社会を構成し運営するとともに、自立した一人の人間として力強く生きていくための総合的な力」と定義し、『①知的能力的要素』、「②社会・対人関係力的要素」、「③自己制御的要素」を総合的に高めることが「人間力」であるとした。これらの論理を受けた今回の学習指導要領には、狭い意味の基礎学力にとどまらず、人間の創造性を「応用力」、他者とのつながりを「表現力」や「コミュニケーション能力」、社会規範に従い社会参加する力を「規範(力)」や「国を愛する態度」として「生きる力」なる学力に読み込み、この「学力」を獲得すれば、人間力が回復され、社会で主体的、関係的、応用的に生きられるようになり、社会の諸矛盾や学校の病理も回復されるという、驚くほどの学力還元主義――すべての矛盾を個人の学力に還元し、その学力を獲得させればそれらが解決されるという論理――が見られる。ここには社会的困難を個人の能力、学力の「自己責任」に背負わせ、社会矛盾を教育による学力形成で始末するという教育観がある。(佐貫浩2009『学力と新自由主義』32頁)

 

 この「脱ゆとり教育」のもとで学力として詰め込まれる「主体性」というのが「技術としての主体性」にあたるというのはもはや言うまでもありませんが、そもそも「生きる力」を学力に還元できるとする根拠となっている日本の「PISA型学力に基づく学力テスト体制」は、本来のPISAテストやその背景にあるキー・コンピテンシー(主要能力)論と比べると、歪んだものになっていると言わざるを得ません。
 第一に、PISAテストはあくまで標本調査であり、学力の現状を調べるものですが、日本の学力テストは、学校教育をコントロールし学力を一定の方向へと誘導していく公教育システムの一環となっています。PISA調査は決して学力テスト体制を必然化するものでも正当化するものでもありません。
 第二に、キー・コンピテンシー理論は、①社会・文化的、技術的ツールを相互作用的に活用する力、②多様な社会グループにおける人間関係形成能力、③自立的に行動する能力、という三つのカテゴリーを核としていますが、PISA型テストによって計測・獲得されるのは基本的にこれらのうち①、つまりリテラシーだけだということです(注1)。子どもが人間らしく生きる世界を回復するという視点を欠いた一面的なPISA型学力競争は、学力の歪みをかえって拡大するでしょう。
 そして第三に、PISA型学力が、北欧型福祉社会構造や、イギリスにおける青年への社会参加支援システムや、西欧諸国の青年のシチズンシップ保障の伝統とつながれるとき、コンピテンシーの獲得は、とくに底辺の排除の位置に置かれている青年が、そこから脱出して社会参加していくための不可欠な力量の獲得につながります。その限りではここで言われているコンピテンシーは、一人も落ちこぼれ(=排除者)を生み出さないために、弱者がそこから脱出して社会参加する力量として把握されています。しかし日本の自己責任論の土俵では、競争の勝利者に残るための力量として「生きる力」が把握され、それを獲得できない者は社会からの排除を自己責任で受け止めねばならないとされてしまいます。弱者を切り捨て、国民の安全や福祉の視点を欠落させて社会の格差化を加速させる日本の政治や経済のもとでは、PISA型学力はグローバル経済市場で勝ち残るための労働能力へと一面化されるのです。
 このように歪んだ形でのPISAテストへの固執は、学校教育全体に脅迫的な評価システムを蔓延させる要因となっています。またそうした評価の目線は学校内のみならず、家族をはじめとする親密圏にまで浸透し、「よい子」であることが小さい頃から子どもの生活を支配するような、抑圧された環境を作り出しています。

 

 

④に続く……

 

注釈

(1)たしかにPISA調査はアンケートなども合わせることで、キー・コンピテンシーの②や③に当てはまる能力も若干は調査している。しかし「アンケート」はテスト圧力には乗らないため、テストシステムの一環として②や③の能力それ自体を課題化し競わせることはできない。新学習指導要領の学力観は、要素主義的に把握されたリテラシーの訓練によって、PISAコンピテンシー全体が獲得されるという誤った考えが基にあるのではないか。

「教育」の再考②——ゆとり教育とはなんだったのか

前回の記事(「教育」の再考①——「2つの主体性」と「意識化」 - みやめも2)の続きです。

 

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Ⅱ これまでの日本における教育——ゆとり教育とはなんだったのか

Ⅱ-1:ゆとり教育は「意識化」を目指したか

 1996(平成 8)年の中教審答申「21 世紀を展望した我が国の教育の在り方について」は、<子供に「生きる力」と「ゆとり」>という副題を持っていました。「生きる力」という言葉がはじめて使われたのはこのときのことですが、ここでの「生きる力」そして「ゆとり」という二つの概念にあたるものを目標設定とする試みは、それより以前の1974年、当時の中曾根政権のもとで作られた臨時教育審議会(臨教審)の登場に端を発します。中曾根首相直属のこの審議会はもともと、同時期に足並みを揃えていたアメリカのレーガン政権、イギリスのサッチャー政権なみの、新自由主義的な行財政改革をねらって発足しました(米英においてそうした新自由主義は、学区や地方教育当局の規制あるいは教員団体の力を、市場イデオロギーによって排除したうえで、学力向上・規律回復をねらう能力主義メリットクラシー政策を国家的に推進する役割を果たしました)。しかし臨教審内部において、中曾根総理(当時)に近しい委員の集まる第一部会が自由化論を強く打ち出したものの、第三部会は教育の機会均等を損なうものとしてこれに反発、激しい対立を生み出し、結果的に折衷案として「個性重視の原則」が改革の基本視点として打ち出されることになりました。次いで「生涯学習体系への移行」「国際化・情報化といった変化への対応」が更に基本視点として加わり、これらをまとめた答申が、後に続くゆとり教育の基礎を作ったとされています。

 さて、70年代の半ばは、日本社会がモダンからポストモダンへと移行した時期であると言われています。フランスの哲学者リオタールは著書『ポストモダンの条件』において、ポストモダンの誕生を大きな物語の崩壊」に伴うものであると表現していますが、戦後に整備されて70年代半ばまで続いた日本の教育は、まさにひとつの「大きな物語」を軸とした「単線」「段階的」に通過させるものとして存在し、将来の勤労者生活に必要な、合理的かつ禁欲的な生活態度を身に着けることを子どもたちに求めてきました。しかし時代がポストモダン(日本では「成熟社会」と表現されることもありました)へ移行したと認識されはじめると、成熟した(多様化した)社会に見合った教育が必要であるとの議論が起こり、臨教審答申のような新たな目標設定が教育分野において求められたのです。

 ここまでを見ると、それまでの詰め込み教育からの脱却という点でフレイレの「銀行型教育」批判に通じるものがあるように思えます。しかし、そう考える以前にこれらの教育改革が新自由主義とともにあったという事実に注意しなくてはなりません。なぜならフレイレの議論は、明らかに新自由主義や市場主義と親和性の高いものではないからです。(このあたりが、一年前の記事で訂正した箇所にあたります)

 

Ⅱ-2:ポストモダン・ブームの歪み

 臨教審答申に始まり、1998年の学習指導要領改訂(実施は2002年)に至るまでの、いわゆる「ゆとり教育」改革の流れは、上述したようにポストモダニズムの流行によって大きく支えられてきました。ポストモダニズムは、モダニズムに対する不信、反動、超克といったものを起点としますが、だとすれば、「モダニズム」にあたる部分に何を据えるかによって「ポストモダニズム」の志向性も異なってくると考えられます。

 私は「モダン」とされている70年代半ばまでの教育の問題点を、画一化された価値観による「銀行型教育」に見出します。それらの本質は「Aという行動からはBという結果が必然的に起こる」といった思考様式、言うなれば「思考の関数化(自動化)」(注1)であり、それは政府主導にしろ市場主導にしろ、巨大な画一的価値観を媒介とした社会である限り起こり得る問題です。

 ところが70年代半ばから80年代の日本におけるポストモダニズムの「流行」は、モダニズムの孕む本質的な問題点を考慮することなく、単純に「モダン社会にあったもの」を否定する流れとして生まれてしまったように思います。その結果が「大きな政府の否定」であり、新自由主義との親和なのでしょう。これは構造としてみれば、上述した「関数」が政府由来から市場由来のものへ移行したに過ぎません。そして合理主義、能率主義、産業主義を支えてきた主知的な価値規範への否定としてあらわれたゆとり教育の個性重視、自己実現といった考え方は、新自由主義社会のもとでは「自己責任」と表裏一体にならざるを得ず、そうした社会を生き抜くためには結局画一的な価値観に従って競争をするほかなくなってしまいます。

 またこの時期のポストモダンへの移行そのものについてもやや歪んだ経緯があり、いわゆる「成熟社会」論の背景について岩木秀夫は次のように述べています。

 

臨教審答申の時代認識は、日本は追い付き型で近代化をすすめてきたが、その近代化はじゅうぶんに達成した。もはや、ポスト近代社会をつくりあげなければいけない段階に到達した、ということでした。(……)この言説はじつは八〇年代なかばの、特殊な政治経済状況のなかで生まれた、特殊な言説です。七〇年代なかばの第一次オイルショック以降に、日本は、省力化と多品種少量生産によって、世界経済の中で一人勝ちをつづけました。その結果、アメリカから輸出削減と輸入拡大をせまられて、しかたなく、それまでの科学技術立国・貿易立国という国是をすてました。内需拡大規制緩和という路線の誕生です。成熟社会論は、その別名でした。(岩木2004『ゆとり教育から個性浪費社会へ』39頁)

 

 つまり、ゆとり教育における「生きる力」とは、偏ったポストモダン思想とそれに伴う新自由主義の台頭を背景とした時代の流れを汲んで「自ら考え、自ら学ぶ」ための「技術」を養わせようという、まさしく「技術としての主体性」を求める意味合いがほとんどのキーワードだったのです。しかし「生きる力」というコンセプトはその成り立ちにおいて上述した臨教審内部での対立などを経ているためか、その全てが「技術」としての性質によって構成されていたとまでは言いきれない部分もあります(注2)。とはいえ、少なくともゆとり教育という実践の結果については疑いなく、フレイレの議論、そして私がこの記事で意図するような「意識化」を目指すものにはなっていなかったといえるでしょう。

 

 

③『脱ゆとり教育の正体』に続く……

 

注釈

(1)イヴァン・イリイチ1970『脱学校の社会』における「学校化」概念とほぼ同様。関数y=f(x)は、xに変数を入力することでyの値が定まる。この「xを入れるとyが出てくるという式」がブラックボックスとして人間の思考のなかに組み込まれ、処理が自動的になっていくことの表現。

(2)授業時間数を削減し、学齢期の子どもの生活における「学校」のウエイトを減らそうとした点は方向性としては評価できる。しかしこの手法は学校がカバーしなくなった部分を事実上「丸投げ」にしてしまったため、結果として教育格差を拡大してしまった。

「教育」の再考①——「2つの主体性」と「意識化」

 更新再開のお知らせ記事でも書いたように、以下は一年前の記事のリメイクみたいなものです。したがって内容の被りをはじめ、文章の流用等もありますがご容赦ください。また、既に全体を書き終えていますが長すぎるので分割して投稿します。

 

☆☆☆

 

はじめに 主体性の喪失という危機——2つの主体性

 個人に「主体性」を求める声は様々な場、様々な意味合いにおいて存在します。一つ代表的なのは、民主主義における、政治参加を促すものとしての声でしょう。民主主義とは「達成」されて区切りの付くような、静的なものではありません。それは社会を構成する一人ひとりの継続的な監視と選択によって形を成すような、動的なプロセスそのものです。動的な流れのなかで何かを選択するには、主体的な自己が不可欠となります。主体性を失い、社会がただ従う対象になってしまえば、人々の手からは構造的な問題への対処の手段が失われるでしょう。また社会の設定するものこそが本質的なものであると錯覚することで、人間そのものに優劣がつくことが自然なこととして受け入れられ、それを根拠に他者を排除・攻撃することや、あるいは自分自身を追い込むことまでもが考えられます。そのような状況は、社会という人間のための仕組みが人間の幸福追求に先立つという、本末転倒な結果を招いてしまうことになります。こうした歪みを修正し、複雑化しつつもその本質が「一人ひとりの個人のため」に由来する社会を形作るという意味において、「主体性」は回復すべきものであると言えるでしょう。

 しかし一方で「主体性」を求める声には、例えば企業等における「人材」の条件として挙げられるものなどもあります。「人材」として求められるということは、ある組織や制度に対し、すなわち企業であれば企業に「資するもの」として求められているということです。つまりこうした場合において「主体性」という言葉は「組織や制度のための個人」という構造を支えており、上述した「個人のための主体性」とは似て非なる文脈で用いられていることになります。

 この記事では、まずこれらを区別するために前者を「気づきとしての主体性」、後者に類するものを「技術としての主体性」として位置づけ、人々による「気づきとしての主体性」獲得のための手段として「教育」の在り方に着目します。教育は個人に対し主体性を奪う装置として機能することもあれば、主体性を回復する手段にもなりえます。人々が主体的に生き社会をダイナミックに運用するためには、現状の教育の何が問題でどう変えていくべきなのでしょうか……

 

Ⅰ 理想としての「意識化」

Ⅰー1:意識化とはなにか

 ブラジルの教育思想家パウロフレイレは著書『被抑圧者の教育学』において、「意識化」という概念を教育における重要な事項として位置付け、自身の主張のなかで同様の表現を繰り返し用いています。「意識化」とは、学びにおいて自身のおかれている状況や、社会的、歴史的な存在としての自分自身を対象化することであり、つまりは学びそのものを「問題化」することです。これはすなわち、上述した「気づきとしての主体性」を獲得することに他なりません。

 フレイレは教育の「悪しき例」として「教師がただ一方的に話し、生徒はただ教師が話す内容を機械的に覚える」といったような構図を挙げ、こうした教育の形を「銀行型教育」と名付けて批判しました。彼によれば本質的な学びにおいて知識とはリアリティを伴うものであり、連続した歴史性、歴史的特性の上に成り立ち、動的な今という瞬間に集中します。一方で「銀行型教育」はカリキュラムをはじめとするシステムベースのものであり、歴史的存在としての人間は目に入らず、静的状況に重きを置きます。フレイレはこういった特徴から「銀行型教育」を「現状維持肯定派」ネクロフィリア(死せるものへの偏愛)的」とも表現しています。そしてこうした「主体性を喪失させるプロセス」としての「銀行型教育」に対し、それを回復するものとしてフレイレが提唱したのが「対話」、またそれに伴う「意識化」という手段なのです。

 

対話とは世界を媒介とする人間同士の出会いであり、世界を“引き受ける”ためのものである。(……)言葉を話すという本来の権利を否定されてしまった人がこれらの権利を得ることがまず必要だし、このような非人間的な攻撃を止める必要もある。言葉を発して世界を「引き受け」、世界を変革するのであるならば、対話は人間が人間として意味をもつための道そのものであるといえるだろう。(フレイレ1970,2010『新訳 被抑圧者の教育学』121頁)

 

 こうした「意識化」の教育をフレイレは「銀行型教育」と対を成す「課題提起型教育」と呼び推奨しています(以前の記事では「問題解決型教育」と表記していました。フレイレ関連の訳書によってはそのように表現しているものもあるのですが、現在私は「課題提起型」の方が表現としてより適切であると考えています)。「意識化」を軸とした彼の教育思想は1960年代後半から70年代にかけて大きな支持を得ましたが、80年代以降の新自由主義の台頭とともにその勢いは一時衰退しました。しかし主体性の喪失が今日的な問題である以上、社会を変える力を一人ひとりに与えんとするフレイレの教育論は今なお価値があるはずです。「気づきとしての主体性」を獲得するにあたり、彼の掲げた「意識化」の教育という理念は、教育目標としてはひとつの「理想」であるといえるでしょう。

 

Ⅰー2:意識化のハードル

 しかし、フレイレが「意識化」=「課題提起型教育」と対置している「銀行型教育」的な、いわゆる「詰め込み教育」にはそれを「個人のため」にむしろ擁護しようという声もあります。陰山英男は2002年の自身の著書(注1)において、当時の日本国内が「ゆとり教育」によって「自ら考え、自ら学ぶ」という態度を育てようという「新学力観」の推進を主流としていた(この目標設定がフレイレの「意識化」と一致していたかどうかについては②の記事で扱います)のに対し、「古い学力」として排斥されつつあった読み・書き・計算の反復練習などの重要性を訴えていました。岩木秀夫はこうした陰山の動きを次のように説明しています。

 

陰山があえて管理教育のそしりを甘受してまで、読み・書き・計算の反復練習の価値にこだわったのは、それこそが、とりたてて社会階層の高くない普通の子どもたちに、競争から脱落せずに生涯学習をつづけることを可能にすると、確信していたからでした。(……)計算タイムを競い合ったりする彼らの実践は、子どもを受験戦争にまきこむものだと、予想どおりのはげしい批判をあびました。これに対して、彼は、「親の学歴や収入などによって進路が左右されたり、子ども時代に学ぶべきことを学ばずに成長してしまったりするような、そんなこと」をなくしたかったのだと、説明しました。(岩木2004『ゆとり教育から個性浪費社会へ』36頁)

 

 陰山の主張は、「競争」という社会構造(に従うこと)を前提としているため、「気づきとしての主体性」という目的を動機づける「社会をつくる力」の醸成議論とは土俵を同じくしません。しかし彼の言うように、足並みを揃えて行われる単純な知識の詰め込みや反復練習が、家庭内での学習の機会などに恵まれている子どもたちと、そうでない子どもたちとのインセンティブの格差(注2)の是正に寄与していたことは認められるべきでしょう。またそうした事実から、逆に「意識化」はハードルの高い要求ではないかという疑問も生まれます。……この問いについては「意識化」を戦略として扱う上で重要となるため、後に改めて扱うこととしましょう。

 

 

②『ゆとり教育とはなんだったのか』へ続く……

 

注釈

(1)陰山英男2002『本当の学力をつける本』文藝春秋

(2)インセンティブは、「動機付け」や「刺激」とも訳される。教育におけるインセンティブの格差(インセンティブ・ディバイド)とはつまり「学習意欲」の格差のこと。詳しくは苅谷剛彦2001『階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)へ』を参照。

ひっそりと更新再開

 ご無沙汰しております。突然ですがまたちょっと書く意欲が湧いたのでブログを再開します。どの程度、どれくらいの頻度で更新するかは相変わらずわかりませんが、以前よりは細かく更新したいなあとぼんやり思っています。……というのも今までは社会問題等のテーマについて「どういうものが正しいか」みたいな議論を(背伸びして)扱っていたため更新のハードルが高かったのですが(というとハードルをクリアした記事が珠玉の作品みたいに聞こえますがそんなこともありません)、今後は自分の身体的な感覚に基づいての素直な意見なども記事にできたらいいなと考えているんですよね。だから記事更新の機会も増えるかなぁと……

 

 さて、当ブログの更新は一年前(!)の『日本の教育はどうあるべきか―「制度化」された人格と社会 - みやめも2』を最後に途絶えているわけですが、うーむ……この記事、今見るとかなりツッコミどころ満載で酷いですね……これを野放しにしておくのは本意ではない……

 ——ということで、まずはこの教育の記事のリメイク版?みたいなものを投稿したいと思います。きっとまた新たなツッコミどころがあるはずですが、気づき次第訂正なりまた作り直すなりしますので、どうぞご容赦を。。なんにせよフレイレイリイチあたりの教育思想というのは僕が一番興味関心のあるテーマなので、ずっと勉強中ということになると思います。ご意見やご指摘があれば嬉しいです。

 

日本の教育はどうあるべきか―「制度化」された人格と社会

 

はじめに

 「社会」とは、人間がより豊かで幸福に暮らすために作られた「制度」だ。「豊かで幸福な暮らし」という価値の実現のために、人々が絶えず世界を観察し、思考と実践を繰り返し、主体的に作ってきたもの、それが社会である。それゆえ社会とは本来動的で、常に変化し続ける性質をもつ。

 いま、日本社会は限りなく「静的なもの」として存在している。人間と社会の従属関係は逆転し、「人間の手でつくるもの」として存在するはずの社会制度は「自明の原理」と化した。国民は天からの使命に従うがごとくシステム上の役割に固執し、もはや「豊かで幸福な暮らし」のために社会を疑うなどという姿勢はほとんど見られない。社会の構成員は悉く主体性を失い、ただ機械的な営みに専念している。一方でそのように停滞した社会制度が絶えず変化する「世界」を漏れなく包摂することなどできようもなく、「世界」と「社会」の間の矛盾は日々増え続けている。

 社会というシステムの可能性を十分に引き出し、ダイナミックに運用していくためには、社会を構成する一人ひとりが、社会に対して主体的に向き合う必要がある。人々が主体性を回復するためには何が必要なのだろうか。以下では「制度への従属」の代表例、あるいは根源として「学校教育」というものの在り方を検討し、それらの内容と「社会の運用」というテーマをつなぎ合わせ、主体的な人間によって作られる豊かな社会のために今後必要とされる手段を考えていくものとする。

 

Ⅰ.「制度化」の象徴としての学校 

 日本では小・中学校課程の9年間を「義務教育」としている。学齢期の子どもは必ず学校に通うことを求められ、保護者には「就学義務」として子どもを通学させるよう取り計らう義務がある。「就学義務」はあくまで「就学させる義務」なので、諸外国に見られるホームスクーリングなどでは義務教育の履行と見なされない。したがって日本における子どもの成長過程について、そのほとんどは「学校」という空間、制度に縛られていると言っても過言ではないだろう。子どもの成長が常に学校を軸としているような環境について、イヴァン・イリイチ「学校化」という概念を用いて警鐘を鳴らしている。イリイチの「学校化」についての説明は以下のようなものだ。

 

 教授されることと学習することを混同し、進級することがそれだけ教育を受けたことに、免状を取得すれば能力があるとみなすようになる。多くの人が学校で教育を受けることによって、自分よりよけい学校教育を受けたものに対して劣等感をもつようになってしまう。われわれが知っていることの大部分は、学校の外で教師の介在なしに「話し、考え、愛し、感じ、遊び、呪い、政治をし、働くのを学んできた」にもかかわらずに、である。

 さらに、学校をとおして価値を受け取るようになると、想像力が学校化されてくる。学校で教授されることが教育だとみなすようになるのと同じようなことが健康や安全などにも起こってくる。(中略)彼の想像力も「学校化」されて、価値の代わりに制度によるサービスを受け入れるようになる。医者から治療を受けさえすれば健康に注意しているかのように誤解し、同じようにして、社会福祉事業が社会生活の改善であるかのように、警察の保護が安全であるかのように、武力の均衡が国の安全であるかのように、あくせく働くこと自体が生産活動であるかのように誤解してしまう。健康、学習、威厳、独立、創造といった価値は、これらの価値の実現に奉仕すると主張する制度の活動とほとんど同じことのように誤解されてしまう。そして、健康、学習等が増進されるか否かは、病院、学校、およびその他の施設の運営に、より多くの資金や人員をわりあてるかどうかにかかっているかのように誤解されてしまう。イリイチ『脱学校の社会』)

 

 「学校化」で失われるのは「物事に対し本質を捉えながら向き合う力」である。ゆえに「学校化」の問題は「子どもの教育」という域に留まらず、「人間が社会というシステムを主体的に運用できるか」というテーマにまで発展すると言えるだろう。「ある価値のために作られた社会制度を人間が主体的に運用する」という本来の社会の有り様は、人々が「学校化」されることによって「社会制度に与えられた基準に対し人間が受動的に従う」という錯誤したものになってしまう。

 

Ⅱ.銀行型教育

 「本質を見て判断できるか」、転じて「主体的であるか、受動的であるか」という性質を左右するのは、「学校化」だけではない。学校教育の「中身」についてもやはり議論する必要があるだろう。「学校化」に切り込むことがマクロ的なアプローチだとすれば、こちらはいわばミクロ的なアプローチである。

 パウロフレイレは教育の「中身」についての悪い例として、「銀行型教育」というものを挙げている。「銀行型教育」とは、簡単に言えば「教師がただ一方的に話し、生徒はただ教師が話す内容を機械的に覚える」といったような教育の構図を指す。

 

 生徒をただの「容れ物」にしてしまい、教師は「容れ物を一杯にする」ということだけが仕事になる。「容れ物」にたくさん容れられるほどよい教師、というわけだ。黙ってただ一杯に「容れられている」だけがよい生徒になってしまう。(中略)生徒と気持ちを通じさせる、コミュニケーションをとる、というかわりに、生徒にものを容れつづけるわけで、生徒の側はそれを忍耐をもって受け入れ、覚え、繰り返す。これが「銀行型教育」の概念である。フレイレ『被抑圧者の教育学』)

 

 「銀行型教育」についても「学校化」と同様の「手段の目的化」が見て取れる。本質的な学びにおいて知識とはリアリティを伴うものであり、連続した歴史性、歴史的特性の上に成り立ち、動的な今という瞬間に集中する。一方で「銀行型教育」はカリキュラムをはじめとするシステムベースのものであり、歴史的存在としての人間は目に入らず、静的状況に重きを置く。フレイレはこういった特徴から「銀行型教育」を「現状維持肯定派」や「ネクロフィリア的」とも表現している。「ネクロフィリア」とは「死するものへの偏愛」を意味する言葉で、エーリッヒ・フロムはこの「ネクロフィリア」という概念について次のように述べている。

 

 命というものは構造的にも機能的にも成長するもの、という特徴をもっているが、ネクロフィリアは成長せず、機械的なものだけを愛する。ネクロフィリア的人格は有機的なものすべてを無機的なものにしようという動機をもち、命を機械的なもの見なし、人間をモノのように見る。命のプロセス、感情、思考をすべてモノに変換してしまう。経験ではなく、記録が、そして存在そのものではなく、所有することが重要だという。ネクロフィリア的な人は、それが花であれ、人であれ、とにかくその“モノ”を所有したときに自己実現ができたととらえるが、そのような考え方は結果としてモノの所有が脅かされたときには自らの存在そのものが脅かされる、つまりモノの所有が脅かされるときは、自らの世界というものが脅かされてしまう、ということに通じてしまう。(フロム『人間の心』)

 

 ここでの「モノ」とは広い意味合いで捉えられる。すなわち「静的なもの」であり、「本質ではないもの=手段」である。またフロムの後半の指摘は重要なもので、ネクロフィリア的人格を持った人々は「モノ」に自身の存在を委ねているがゆえに、動的な「主体性」を避け、静的な「客観性」にコミットする。その結果、自身の行動は客観的に観測可能な事実や因果関係によって決定づけられるようになり、彼らから主体的な行動は失われてしまう。

 

Ⅲ.日本の教育の展望

 2008年に改訂された新しい学習指導要領は、ゆとり教育から脱却したということから「脱ゆとり教育」と称され、小学校では2011年度、中学校では2012年度、高等学校では2013年度から完全実施された。「脱ゆとり教育」はそれまでの「詰め込み教育」とも「ゆとり教育」とも異なる「生きる力」を育む教育というテーマを掲げている。「脱ゆとり」の具体的な変更点は言語活動や理数教育の充実など内容を変更するものから、授業時数の増加や教科書のページ数の増量など純粋に量を増やすものまで多岐にわたる。「生きる力」というテーマが仮に実現すれば「銀行型教育」の様相は薄れる可能性がある。※訂正→しかし実際のところ新学習指導要領の掲げる「生きる力」とは、むしろ「新自由主義的な競争社会を自己責任で乗り越えていく力」といった意味合いに近いものとなっている。)いずれにせよ、学校という枠組みのなかで全てを処理しようとしている以上、やはり前述した「学校化」の問題は解決されない。

 

Ⅳ.教育から社会まで

 日本の現状における「教育」が制度化の象徴としてあり、人々が主体性を失う大きな要因となっていることは既に述べたとおりだ。またⅠで触れたように、「学校化」の問題は社会制度と本質的な価値とを混同させるプロセスとして存在し、「人間が社会というシステムを主体的に運用できるか」というテーマにまで発展する。実際、イリイチの挙げた例のほとんどは現在の日本社会に当てはめることができるだろう。教育改革の方針はもちろん、社会保障は役所に窓口を設けることで履行されたものとされ、長い労働時間は必ずしも生産性に寄与していない。軍備の増強と安全保障が同一視され、地方分権地方公共団体に予算を分配することで遂行されるものと見なされている

 また「ネクロフィリア的人格」についても、その社会的な影響を考える必要がある。Ⅱではこれを「銀行型教育」の特徴として採り上げ、「授業において生徒は終始受動的であり、生徒の側からアクションを起こすことがない」といった状況を一つの例とした。この「学校」と「授業参加」を巡る状況は、ほぼそのまま「社会」と「社会参加」の問題に置き換えることができる。すなわち「ネクロフィリア的人格」が蔓延している状況下では、社会参加へのハードルが高く設定されてしまうのである。

 これらを踏まえると、われわれが社会を健全に運用する上での課題は大きく分けて二つだ。一つは「学校化」からの脱却、そしてもう一つは社会参加へのハードルを下げる試みの実践である。

 

Ⅴ.「学校化」からの脱却について

 「学校化」を脱却するには、何よりもまず学齢期の生活における「学校」のウエイトを減らさなければならない。既に述べたように学習指導要領の改訂に伴った授業時間の増加などは即座に改められるべきだろう。だが、現在の日本の学校教育にはそれ以前になによりも深刻な問題がある。それは「部活動」である。

 「クラブ活動」「部活動」「サークル活動」とは、いずれも共通の趣味・興味を持つ仲間が集まり、それぞれに沿った活動をすることを目的とした団体である。この三つはしばしば同一視されるが、「部活動」のみ学校教育活動として存在している。文部科学省は部活動を「教育課程外」の学校教育としてはいるものの、「原則として全員入部」という制度を採っている中学校も多く、また内申書への影響などから「部活動に入ることが当たり前」といった風潮が一般的なのが実態である。

 部活動の問題は何よりもその活動時間の多さにある。活動は主に放課後に行われるが、朝練と称して朝に活動をすることも珍しくない。とりわけ運動部については活動の頻度が平均的に高く、週あたり6日活動する団体が最も多い。また文部科学省の調査によれば、生徒、教員、保護者の1割から2割が、運動部の最大の問題として「活動時間が多すぎる」と答えている。

 「学校化」は、「学校教育」があらゆる範囲をカバーしようとするために、子どもの価値基準が一元的になることで起こる。したがって「部活動」という「学校教育」がこれほど多大なウエイトを占めているというのはそれだけで問題なのである。

 さらに「部活動」には、それ自体の性質の問題もある。近年では「ブラック部活動」とも呼ばれ、先ほどの「学校教育として長時間拘束する」という問題とは別に、純粋に肉体的負担の問題として拘束時間の長さが挙げられているほか、いわゆる「根性論」に基づいた理不尽な指導が問題化している。またこうした問題があってもなお「辞められない」というのも「ブラック部活動」の問題点の一つで、これは上述したように「部活動」が内申点の評価に影響することや、部活を辞めることで学校での居場所がなくなるといった理由によるものである。

 この「ブラック部活動」問題に対し、2016年8月1日放送のNHKクローズアップ現代(*1)では「長く練習するほど良いわけではないという価値観を浸透させ、拘束時間を減らす」、「やめる勇気を持つ」といった策を提示しているが、いずれも実現したところで「学校化」問題は解決せず、部活を辞めた際の学校での人間関係への影響を本人の気の持ちよう次第としてしまうのも、いささか投げやりな印象を受ける。

 したがって私は、この「部活動」を巡る問題を解決するにあたって、「部活動」そのものを廃止すべきであると考える。「部活動」が担っていたスポーツや文化活動については、完全に「学校外」の枠組みで行われるべきである。

 スポーツや文化活動を完全に学校(とりわけ義務教育)と切り離すことで、形骸化していた「自主的な学生の活動」という部活動の意義は代替され、本人の取捨選択によってより自由にスポーツや文化活動に取り組むことができる。また学校外の指導者、仲間とコミュニティを築くことで、子どもは多様な価値観に触れる機会を得られ、「学校化」からの脱却に繋がる。学校の成績や学校の人間関係とも切り離されているので、指導に問題があったときには内申点や学校での居場所を気にせず辞めることができる。もちろん、それまで「部活動」のカテゴリに入っていなかったボランティア活動や地域参加などの時間を確保することもできるだろう。

 「学校教育」の割合を減らすとともに、多様な場、多様な人間と相互に関わりあえる環境を用意することで「学校化」問題は解決に向かうものと私は考える。

 

Ⅵ.社会参加へのハードルを下げる試みについて

 Ⅳにおいて「社会参加」は「授業参加」の有り様をほぼそのまま受け継いでいると述べたように、まずは教育について「銀行型教育」から「問題解決型教育」へとシフトさせる必要がある。「問題解決型教育」とはフレイレが「銀行型教育」と対称的な教育方法として挙げた概念であり、対話性を重視し、社会を動的なものと捉える理念の上に成り立つ。「銀行型教育」のもとでただ受動的に知識を吸収するのと、「問題解決型教育」のもとで「自分から発信する」という訓練を受けているのとでは、その後の社会参加のしやすさに大きな違いができるだろう。

 しかし、これは基本的に個人レベルでの認識を変える手段であって、直接社会全体の認識を変えていく試みとは言い難い。もちろん皆が等しく「課題提起型教育」を受けることで主体的に社会参加をする人間が増え、そうした人間の割合が着々と増えることで社会全体の空気が変わっていく可能性はある。だが言うなれば、これはハードルを下げるというよりも、ハードルを乗り越える力を個人に付与する試みである。だとすれば本当に「ハードルを下げるような試み」とは、どんなものになるだろうか。

 私は「社会運動を肯定すること」こそが、社会参加のハードルを下げる試みであると考えた。社会運動とは、社会の状況の改善や社会問題について独自に提起したり、政府の社会政策に対して推進/阻止を求める者が、それらの実現を目的として同志を募り団結し目に見える形で行動したりして、世論や社会、政府などへのアピールを通じて問題の解決をはかる運動のことを指す。また近年の社会運動は、かつてのような思想・イデオロギー色の強い運動とは異なり、比較的独立したテーマに沿って主張を掲げるという形のものが多くなった。なぜ、これらを肯定することが社会参加へのハードルを下げることに繋がるのか。それは社会運動というものが、制度化(学校化・ネクロフィリア化)された人格によって否定される傾向にあるからである。

 社会運動は、一般には独自に政党を結成したり、候補者を擁立したりするようなことはせず、圧力団体を組織するまでに留める場合が多い。また近年の社会運動は上述したように細分化しており、ともすれば政治家などに無視されることもありうるような、単なる「意思表示」という目的で行われることもある。

 こうした社会運動の在り方、とりわけ「意思表示」のようなものについては、制度的な視点から見た場合、ほとんど無意味なものと映るだろう。なぜなら制度上の成果が、直接政党を結成したり候補者を擁立したりすることに比べて少ない、もしくは全くないからである。あるいは自身を含む貧困による生活の不自由をテーマとして運動しているような場合、運動に費やす時間と労力を労働に充てた方が、貨幣経済という制度上は少しでも改善されるからである。

 しかしこれらは、価値へのコミットメント、あるいは「社会参加をする機会がより多くあること」それ自体の社会にとっての有効性といった視点を欠いた指摘である。徹底的に制度化された人格は、あくまで制度上の善/悪、役に立つ/立たないといった基準で物事を捉えるため、こうした点まで想像が及ばない。逆に言えば、価値コミットメントに基づいて「無意味」とされる社会運動を肯定していくことで、ただ社会運動というものが認められるだけでなく、制度化された人格の想像の余地を拡げられる可能性がある。そして社会運動という、(制度的な観点から)否定されがちだった「社会参加」の例が広く認められることで、社会全体における「社会参加」のハードルは下がることだろう。

 

おわりに

 冒頭において私は、社会をダイナミックに運用していくためには、皆が社会に対して主体的に向き合う必要があるのだと述べた。ここでいう「皆」とは、「国民一億数千人」といったような「人数」で捉えるのではなく、あらゆる学歴、あらゆる性、あらゆる年齢、あらゆる業種の労働者…といったような、いわば「属性」で捉えられるべきである。

 学校教育のカリキュラムを強化すれば、確かに平均的な学力の水準は上がるだろう。しかし「皆の学力を上げよう」という試みは、教育の対象者を「勉強のできる人間」という「一つの属性」に統一しようとする試みであって、「あらゆる属性」を包括しようとするものではない。「あらゆる属性」を「あらゆる属性」のまま、普遍的に包括しようとするのであれば、仮に勉強に付いていけなくても、一人の人間として主体的に幸福を追求できるような環境作りを目指すべきだろう。教育というものはもっと広義に解釈されるべきであり、教育政策は決して「属性の統一」を目指すものであってはならない。「学校」という場や「学校」という制度の外にあっても、本来のわれわれは学び、実践し、社会を動かすことができる。いまこそ「豊かで幸福な暮らし」という普遍的な価値と社会制度の在り方とを比較して、「皆」の手で社会を再設計すべきではないだろうか。

 

 

(*1)「死ね!バカ!」これが指導? ~広がる“ブラック部活”~ | NHK クローズアップ現代( http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3847/1.html)

普遍主義としての「マニュアル対応」という選択

 

ネットでマニュアル対応というものが話題になっていました。マニュアルにも色々ありますが、今回は「客に確認をするマニュアル」のことです。(以下「確認マニュアル」)

より具体的にいうと、某おじさん芸能人方がテレビの番組内で「明らかに見た目が未成年ではないのに年齢確認の手続きを要求された」「ハンバーガーを注文するとき明らかに一人で食える量じゃないのに店内で食べるか聞かれた」という例を挙げて、どちらも「けしからんことだ」としていたことが波紋を呼び、主に反発の声を中心にネットが盛り上がっていました。

 

店員のマニュアル対応についての是非ってたびたび議論されますよね…

たびたび議論されるだけあってなんとも結論を出しにくいテーマなのですが、今回は「確認マニュアル」限定だったので、これだけなら擁護できるんじゃないかと思ってじっくり考えてみることにしました。ということで僕は「普遍主義」という観点から「確認マニュアル」に忠実な店員を擁護したいと思います

 

「普遍主義としてのマニュアル対応」を、お酒の年齢確認を例に取って説明してみます。店の運営側がお酒の年齢確認に対するマニュアルを作成したとき、僕はこれを「未成年への酒類販売防止という課題に対して、店の運営側が普遍主義的な対応を選択した」と捉えます。ここでいう普遍主義というのは「条件に関わらず誰にでも等しく同じ対応をする」ということで、「人間の裁量を介入させない手法」と言い換えることもできます。

この「普遍主義」ですが、裁量をするための線引きが難しいときに使われると考えてください。今回は「20歳を超えているかいないか」という線引きですが、どうでしょうか。もちろん年齢確認をする前の判断なので、線引きの材料は見た目だけですよ。明らかに老人みたいなのはわかる?本当にそうですか?一本の線を引くんですよ?本当に漏れがないように線引きできると言い切れますか…?

いま「いや、それでも老人みたいなのに関してはさすがに言い切っていいでしょ!」と判断した方、少し、ほんの少しでも思い切るような感覚がありませんでしたか?組織を運営する上でその「思い切り」ほど無責任なものはありません。その無責任さを背負うぐらいだったら、いっそ全員に一手間かけてもらって、確実な体制を作ろうというのが「普遍主義を選択する」ということなのです。要するに「確認マニュアル」をつくるに至ったのは「見た目で判断するためのマニュアル」がどうしても作れないからということなんです。

 また普遍主義について、「全体を個人の上位に置いた考え方」と説明されることがあります。そして「確認マニュアル」を導入しているのは、一定より規模の大きいチェーン店がほとんどだと考えて間違いないでしょう。お店を広い範囲に展開すれば、その分多種多様なお客さんが来ますね。純粋に「例外」に遭遇する可能性が高くなるのと同時に、利益の対象としての「全体」の比重が上がり、社会に及ぼす影響も無視できなくなってきます。そう考えると、僕はコンビニチェーンなどが確認マニュアルという普遍主義を選択するのはしかるべき判断だと思います。

 

人間不思議なもので、当然だと思っていることには腹が立ちません。是非多くの人が「普遍主義」に伴う一手間を当たり前のことと認識し、イライラせず世の中の利益に貢献してくれるようになることを願います。

 

それではまた。

 

 

緊急事態条項を巡る首相の答弁を検討する。1/19参院予算委

※2016/01/26に書いた引っ越し前の記事です

 

安倍晋三首相は19日の参院予算委員会で、自民党が2012年に発表した憲法改正草案の緊急事態条項について「国際的に多数の国が採用している憲法の条文だ」と述べ、緊急事態条項新設に意欲を見せた。
(中略)自民党草案には、緊急事態に法律と同じ効力を持つ政令を出すことができると記載。この条項について、社民党福島瑞穂副党首は「立法権を国会から奪うものだ。ナチス・ドイツの授権法と全く一緒だ」と批判した。首相は「限度を超えた批判だ。諸外国に多くの例がある」と反論した。(毎日新聞より)



と、こんなことがありました。 
今回はこのときのやり取りについて検討していきます。これによって自民党草案の緊急事態条項とはどういうものなのか、少しは理解が進むのではないでしょうか。そのためにまず、「緊急事態条項」一般について、簡単に説明します。

災害やテロなどが起こった場合には、政府の素早い対応が求められますよね。あまり悠長に対応していては、被害が拡大する恐れがあるためです。軍(自衛隊)を動かす必要があったり、市民にあまり自由にウロウロされては困るので移動範囲を制限したり、ケースによって適切な対応というものは様々あります。しかし自衛隊をいつでも好き勝手に動かされては困るし、移動の自由は基本的人権にあたるので原則として制限されません。ですから「こういうときにはこういう理由があるからこういう対応をします」ということをあらかじめ定めておくんですね。これが政府の対応の基本形になります。ただ当然ですが「あらかじめ想定しておく」というのにも限度がありますから、なかには既存の条件では必要な対応ができないというケースもあるかもしれません。新しく条件を定めることで対応できるようにはなるけれど、事態は緊急を要するのでいちいち通常の手続きで議会を開いていられない…
そんな状況に対する策のうちの一つが「緊急事態条項」という考えなんですね。



首相のやり取りについての検討に戻りましょう。

●「国際的に多数の国が採用している憲法の条文だ」という言い分は趣旨を考えると間違いである

「趣旨を考えると」とはどういうことなのか説明します。
まず「緊急事態条項は国際的に多数の国が採用している」これは
間違いではありません
しかし「自民党草案のような形での緊急事態条項」となるとこれは
極めて異例で、度を越えています
そして今回のやり取りの趣旨とは、あくまで自民党草案に盛り込まれた緊急事態条項について言及するものです。したがって「趣旨を考えると」首相の発言は明らかな間違いになるんですね。果たして首相は趣旨を組み取れなかったのか、海外の例について知識がなかったのか…

では肝心な自民党草案の緊急事態条項が異例であるとする根拠は何か。
自民党の定めたものでは、緊急事態だと認定した場合、政府は法律と同等の効力を持つ命令(独立命令)を出すことが可能になります。
ここで海外の例を見ると、緊急事態すなわち「議会をいちいち開いていられない」というとき、特別委員会程度で対応できるようにしている国や、立法ではなく個別の行政措置を取ること許可している国は確かに少なからずあります。しかし自民党草案のように、立法権を丸投げして、なおかつそこに議会も委員会も関与しないというような規定は国際的に見て極めて異常で、白紙委任になる恐れを孕んでいるという点で大変危険です。これを「他の国と同じ」などと言われては、たまったものではありません。

☆☆☆

この記事を読んでくださっている方の中には、上にある緊急事態条項についての説明を見た際、「たしかにそれは必要かも」と思った方もいると思います。しかしその説明で「策のうちの一つ」と言ったのが実は大切なことで、国家緊急権に対する向き合い方については色々なものがあるんですね。現在の日本も何も策が無いというわけではなく、立法が必要な緊急事には政府が国会の召集権を持つようになっていたり、それが衆議院の解散中であれば参議院の緊急集会で代行できるようになっていたりと日本なりのシステムを構築しています。よく誤解されるんですが緊急事態についての規定が無いわけじゃないんですよ。それで十分なのかという議論はありますが、いずれにせよ、少なくとも自民党改憲草案の緊急事態条項については未熟で危険なものであるということが明らかです。
今回の緊急事態条項に限らず、よく自民党の人などは憲法改正を促す文句として「当たり前のことをできるようにしよう」みたいなことを言うんですが、じっくり検討してみると問題が見つかるというケースが非常に多いです。とくに憲法というのは解釈の余地というものがありますから、一見すると最もらしいことを言うのが簡単なんですね。僕ら個人はこれから更に増えるであろうそういったある種の「ウマい話」に対面したとき、すぐに問題点を指摘できなくてもよいので、まずは鵜呑みにせず疑ってみることが大切だと思います。僕もこのブログを書くことで、ささやかな範囲ですが手助けができればなぁと思っています。自民党憲法草案についてはまだまだ色々な変更点があるので、また記事を書くかもしれません。

それではまた。

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