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みやめも2.0

思考のメモ書き

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無生物のロール・プレイ

※2015/08/25に書いた引っ越し前の記事です

 

今回は「だからこうだ」という結論が出るような話はしないと思います。さっき風呂入ってたら思いついたことをダラダラと書き連ねる感じです。その流れで落としどころを見つけるかもしれませんが。。


☆☆☆

人が印象操作(演技)をする生き物であるとする分析は数多く存在しています。
ユングのペルソナ、ゴッフマンのドラマツルギー、日本であればハレとケの概念なんかはギリギリその部類でしょうか…


印象操作の善悪については賛否両論ありつつも、われわれの日常に印象操作が根付いていることは疑いようもない事実でしょう。仕事、友達、家族、先輩、後輩…僕らの立場はたった一日の間にもコロコロ変わり、立場に応じてそれぞれの役割を演じ(ロール・プレイ)ます。


さて、ここまでは文系ならたぶんみんな知っている話。あるいは学術的な理論として知らなくてもすぐピンとくるでしょう。そして僕が風呂で思い浮かんだことというのはこれを延長したようなもので、それがすなわち今回のタイトルにもした「無生物のロール・プレイ」という考え方でした。

☆☆☆

では、簡単にわかってもらうための話をします。

あなたは今、自宅からこのブログを見ているでしょうか?もしそうだとすればズバリ申しあげましょう、あなたのいる場所は、「あなたの自宅」という演技をしているだけで、本当は「あなたの自宅」ではありません。そう、あなたは石膏やコンクリート、あるいは木材などで都合よく囲った空間に「家」という役割を与えて演技させているだけにすぎない!!!

―ハイ、極端ですね。極端だし、たぶんこんなこと偉そうに訴えられたら「コイツは役に立つようなこと言わないだろうな」って思うんじゃないでしょうか。そして恐らくそう感じる理由は、「家」という存在は既に法律や社会の仕組み、我々の生活基準と複雑に絡み合っているという事実によるものではないかと推測します。つまりそういった複雑な事情を踏まえずに物理的な事実だけ突きつけられても、世間知らずの役に立たない考えにしか映らないわけです。なにより「家」は役に立っていますよね。最も原始的な段階では雨風を凌ぐため、現代なら「不動産」という文字通りに財産としての役割もあるし、共同体の管理をするためにも使われています。


ではなぜあんな極端な話をしたのか。
僕は別に「家は物質の集合に人間が役割を与えたものだ」と言うことで「家」の意味を否定したかったわけではありません。上で述べたようにそれが役立つことも、今の僕に不可欠であることも知っています。しかし「極端な話」を一蹴するつもりもまたありません。僕は僕の言う「無生物のロール・プレイ」的な認識を確かに持っています。

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赤い文字で世間知らず、と書きました。世間を知るって、いったい何なんでしょうか。僕には、ほとんどの人が「役割」の部分だけを見て「世間を知る」に至っているように見えて仕方ありません。そしてそうやって「世間を知り」適応した人間は、自分が物に付いた「役割」ばかりにこだわるのと同じように、自分自身のことも見てくればかりにこだわるようになります。
家の例を出したとき、その役割は合理的な成り立ちが背景にありました。これは家に限らないことで、物の役割というのはそれなりの理由があって割り当てられていることがほとんどでしょう。そして物の「役割」ばかりに影響されている人は、自分の「役割」にも理屈を求めます。物がそうであるのと同じように。
最後まで理屈に適った生き方ができれば問題はないのですが、コレと決めた生き方の途中で躓き挫折してしまうことは珍しくありません。そうすると文字通りその人にとっての生きる理由がなくなってしまいます。そんな風に絶望して何もしなくなってしまう人を見てきました。

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人間は無生物にも役割を与えることで社会を回しています。無生物が役割を演じることは社会を回すために不可欠であり、社会を回すことで僕らは多大な利益を享受しています。しかしそれでもなお、演技は演技であるということを忘れてはいけないと思うのです。「義務」なんて名の付く言葉がありますが、そんなものも「絶対である」という役割を人間が演じさせているだけに過ぎません。それでも敢えて守るのは、ただそれが巡り巡って利益になるような仕組みを作ってもらえているからです。だから本当に追い詰められてどうしても辛ければ、「義務」であっても守る必要はないと思います。今の社会には「生きる意味」に縛られて辛くなっている人があまりにも多すぎます。勝ち組、負け組なんて言葉を聞いて育ってきたからでしょうか。なんにせよ生きる意味を無くすということは、決して消極的になるということではありません。積極的になるのも消極的になるのも”敢えて”やれば良い。僕たちは本当は自由で、敢えて役割の世界に身を投じているのだという自覚を共有できたとき、きっと社会は明るくなると思うのです。

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