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みやめも2.0

思考のメモ書き

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「理屈の切れ目が縁の切れ目」の人間関係

※2015/12/20に書いた引っ越し前の記事です

 

あなたは「金の切れ目が縁の切れ目」という人間関係をどう思いますか?


唐突過ぎましたかね…うーん、少し条件を加えて言いなおしましょう 。

ビジネス上の関係を除いた、いわゆる友人関係や恋人関係などを「人間関係」とした場合、
あなたは「金の切れ目が縁の切れ目」という人間関係をどう思いますか? 


―恐らくあなたがホリエモンでもなければ、「それでもいい」とは考えないだろうと推測します。
その理由については、あなたが質問をされたときになんとなく浮かんだ感覚を思い返していただければ十分です。なにしろこれは個人の感覚の問題なので…

 

さて、本題はここからです。
僕は上で挙げた「金の切れ目が縁の切れ目」という人間関係と同様に、 「理屈の切れ目が縁の切れ目」とでもいうべき人間関係に疑問を抱いています。

まず「理屈の切れ目」とはどういうものか説明しましょう。
「理屈の切れ目」とは、「理屈では擁護できないという状況」のことです。例を2つ挙げましょう。

あなたの友達(仮にAさんとします)が、あるとき人に迷惑がかかるような行動を取ってしまったとします。やがてそれを目撃していた人から噂が広まり、周囲ではAさんに対するちょっとした叩かれムードが発生してしまいます。さてAさんはあなたの友達ですが、人に迷惑がかかる行動をしていたのは事実であり、Aさんを叩く意見も至極正論というべきものでした。どうやらAさんを理屈で正当化することはできそうもありません。このときあなた、それから周囲の人にとってAさんは「理屈の切れ目」にあります

もう一つの例です。
あなたのクラスメイトのBさんは、皆と同じようにSNSをやっています。しかしBさんはしばしばそこで痛々しい発言をしてしまう人で、周囲の人はなんとなく違和感を覚えているのでした。あるとき話の中で一人がついにその違和感を口に出し、それを皮切りにそれぞれが思いを爆発させ、話題は痛々しさの指摘で盛り上がってしまいます。確かにBさんの発言は痛々しく、中には人を馬鹿にしたような発言もあったため、叩かれてもおかしくはありませんでした。このときもあなたにとってBさんは「理屈の切れ目」にあります

これら2つとも多対一で叩かれているという状況から、いじめの例と捉える方もいると思います。それも間違ってはいないのですが、状況を考える上で押さえておいてほしいことがあります。
それは「理不尽ないじめではない」ということです。AさんもBさんも、なんとなく気に食わないから叩かれているわけではありません。さらに周囲の叩きも無茶苦茶な罵倒などではなく、理屈の通ったものなのです。実際にAさんもBさんも、叩かれる原因となった一点だけが無かったことになれば、普通に楽しく過ごせていたはずの人間なのです。「いやAさんとBさんの普段の人格の設定なんて知らないし、後で付け足されても…」と思うかもしれませんが、実際にごく一般的な人が一つの問題だけでボロクソ叩かれてしまっている状況があるのです。そう、「理屈の切れ目が縁の切れ目」という空気は今やそこらじゅうで見受けられます。


僕はこれに疑問を抱いていると言いました。
なぜか。率直に言って「過剰さにモヤモヤするから」です。

上の例を見て、なんだかモヤモヤとしませんでしたか?僕はめっちゃくちゃモヤモヤします。
友達が理屈で擁護できなくなったからどうにもできないという、自分の意思が理屈に引っ張られている感じがまず嫌ですね。ビジネスのような、目的を中心として集まる関係なら理屈どころかお金の問題でも切り離すべき時がありますよ。でも友達関係、恋人関係なんて、別に仲良くしたいと思えば仲良くすればいいし、好きなら好きでいればいいじゃないですか。あるいは仲良くしたいとは思わないまでも叩くのが憚られるなら、叩こうって気持ちなんか捨ててしまえばいいんですよ。「お互いがこうと決めてさえしまえば理屈なんて無視して事を進められる」という性質は、使い方次第で人間の良いところになるものだと僕は思います。

え、でも問題は問題なんだから放置するのは甘やかしなんじゃないの?と思った方、その通りです。別にいいじゃん~とかいって見過ごすのはお互いの為になりませんよね。問題点はきちんと理解しておく必要があります。きちんと理解し、叩かれるに至る理屈を把握したうえで、行動は自由に選ぶということが大切なんです。そこに単なる甘やかしとの違いがあります。というかそもそも問題があったとして、それを叩いて潰してしまうのは荒治療のような気がします。まるで結核を針で治していた頃みたいな…

「いや、俺は理屈で間違っていることは叩きたくなっちゃうわ」という方、それは長い目、あるいは広い視野で見たときに合理的ではありません。まず魔が差すということは誰にでも起こりうることだし、叩ける部分というのも探そうと思えば誰相手でもどうとでも見つけられるのが一般的です。(綺麗ごとのようですが本当にそうです)
つまり着火されるきっかけと、それが燃え上がる燃料というのはセットになって世の中に溢れているということなんですね。この「火と燃料」が一度付いてしまうと必ず惨事になるということであれば、自分も周りも不安ベースで生きていかざるを得なくなるでしょう。必要に応じて理屈を”敢えて”覆すことのできる人間関係というのは、そこに安心感をもたらすためにあるのです。仮にそれ無しで不安を抑えようとすれば、ひたすら当たり障りのない行動、言動ばかりを選択することになり、今度は退屈が訪れることでしょう。ここまで把握した上でそれでも叩くのならそれはあなたの自由です(もちろん度が過ぎれば権利侵害になるので自由とも言えなくなります)が、僕も僕の自由を以てやめるべきだと言わせてもらいます。


☆☆☆

さて、この「理屈の切れ目が縁の切れ目」という現象、実はネット上で非常によく見られるんですね。これがあるものをもたらしています。
ちょっと引っかかる所があるかもしれないSNSの例を出したのもそのためでした。「Aさんがたった一度魔が差しただけであったのに対しBさんの行為は継続的な書き込みであり、後者は全体的な人間性を評価されてもおかしくないのではないか?」ということです。
その点についてまず押さえておいて欲しいのが、「何かに染まったとき、ネット上の文章というのはとりわけその影響を受ける」ということ。仮にリアルで対面した場合、話し方や表情、咄嗟の反応など、細かい物から目に見えない物までその人を表現する材料というものは絶えず現れ続けています。それこそ文字情報だけのネットとは比べ物になりません。そして文字情報という「一部分」は、容易にガラリと変えることができるという性質を持っているのです。ネットでよく喋るあまり「ネット上では本性が出る」とか言われてる人をちょいちょい見かけますが、いささか短絡的な考えだと思います。ここでのBさんも同じで、一部の染まりやすい部分が染まってしまったに過ぎません。
以上を踏まえて、Bさんの行為も「ひとつのきっかけ」に過ぎないということをわかっていただけたでしょうか。 


では話を戻します。
ネット上に蔓延する「理屈の切れ目が縁の切れ目」という空気がもたらすもの、それは

「自分の方が高次元にいる(お前のいる地点は俯瞰して見ることができる)と主張しあうくだらないマウンティング合戦」です。

これ、お互いが切磋琢磨してどんどん高度を上げているということなら良いのですが、実際にやっていることは「こっちが正論だ」という認定を重ねるだけのイタチごっこで、「こっちが正論だ」と書かれた2枚のコインの上下をひたすら入れ替えているようなものです。高度になんてなるわけがありません。
彼らが気にするのは「正論(とされる)側にいるかどうか」であって、それを正論たらしめている事実関係などは大した問題にはなっていません。彼らが最も気にかけるのは「いかに支持すべきか」よりも「いかに間違っていないか」であり、変なことをするヤツがいる陣営は絶対に切り捨てます。つまり彼らは議論においてほとんど賛成派になることはなく、基本的に反対派か、反対派の反対にしかならないのです。しかし「スタンス」というのはいわば「誰でも参加できる集団」であり、「誰でも参加できる集団」の中には往々にして過激派みたいな変なヤツがいるものです。すると彼らは大概「どっちもどっち」というスタンスを取るのですが、世の中「どっちもイヤ」では進まないことがほとんどなわけで、僕は彼らのようなタイプを一言で「無能な潔癖症」と呼んでいます。

 
twitterをやっている人なんかは、よく「人の行動、発言をパターンに当てはめて茶化したようなツイート」を見かけませんか?「あるあるネタ」の延長みたいな感じのヤツです。
これはまさに「お前(=パターンに当てはめた人物)のいる地点は俯瞰して見ることができる」というマウンティング合戦の一手そのものです。恐らくこういったツイートを見た人はそのパターンの行動、発言を避けるようになり、場合によっては一緒になって茶化すことで「自分は違う」「自分もこのレベルの人間の思考は読めている」という信号を出します。こういったことを繰り返すのがネット流マウンティング合戦なんですね。実に不毛でくだらない上、人々をくだらない理由で委縮させているという点で僕みたいな人間からすると迷惑です。これに流されないためには、理屈を"敢えて"覆すこともできる人間関係を作りあげる他ありませんなぜならネット上のマウンティングというのは既に述べた通り「こっちが正論だ」と言い合うもので、そのためには必ず理屈を用いることになるからです。




長くなりましたが読んでいただきありがとうございました。
それではまた。

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