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みやめも2.0

思考のメモ書き

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日本の教育はどうあるべきか―「制度化」された人格と社会

 

はじめに

 「社会」とは、人間がより豊かで幸福に暮らすために作られた「制度」だ。「豊かで幸福な暮らし」という価値の実現のために、人々が絶えず世界を観察し、思考と実践を繰り返し、主体的に作ってきたもの、それが社会である。それゆえ社会とは本来動的で、常に変化し続ける性質をもつ。

 いま、日本社会は限りなく「静的なもの」として存在している。人間と社会の従属関係は逆転し、「人間の手でつくるもの」として存在するはずの社会制度は「自明の原理」と化した。国民は天からの使命に従うがごとくシステム上の役割に固執し、もはや「豊かで幸福な暮らし」のために社会を疑うなどという姿勢はほとんど見られない。社会の構成員は悉く主体性を失い、ただ機械的な営みに専念している。一方でそのように停滞した社会制度が絶えず変化する「世界」を漏れなく包摂することなどできようもなく、「世界」と「社会」の間の矛盾は日々増え続けている。

 社会というシステムの可能性を十分に引き出し、ダイナミックに運用していくためには、社会を構成する一人ひとりが、社会に対して主体的に向き合う必要がある。人々が主体性を回復するためには何が必要なのだろうか。以下では「制度への従属」の代表例、あるいは根源として「学校教育」というものの在り方を検討し、それらの内容と「社会の運用」というテーマをつなぎ合わせ、主体的な人間によって作られる豊かな社会のために今後必要とされる手段を考えていくものとする。

 

Ⅰ.「制度化」の象徴としての学校 

 日本では小・中学校課程の9年間を「義務教育」としている。学齢期の子どもは必ず学校に通うことを求められ、保護者には「就学義務」として子どもを通学させるよう取り計らう義務がある。「就学義務」はあくまで「就学させる義務」なので、諸外国に見られるホームスクーリングなどでは義務教育の履行と見なされない。したがって日本における子どもの成長過程について、そのほとんどは「学校」という空間、制度に縛られていると言っても過言ではないだろう。子どもの成長が常に学校を軸としているような環境について、イヴァン・イリイチ「学校化」という概念を用いて警鐘を鳴らしている。イリイチの「学校化」についての説明は以下のようなものだ。

 

 教授されることと学習することを混同し、進級することがそれだけ教育を受けたことに、免状を取得すれば能力があるとみなすようになる。多くの人が学校で教育を受けることによって、自分よりよけい学校教育を受けたものに対して劣等感をもつようになってしまう。われわれが知っていることの大部分は、学校の外で教師の介在なしに「話し、考え、愛し、感じ、遊び、呪い、政治をし、働くのを学んできた」にもかかわらずに、である。

 さらに、学校をとおして価値を受け取るようになると、想像力が学校化されてくる。学校で教授されることが教育だとみなすようになるのと同じようなことが健康や安全などにも起こってくる。(中略)彼の想像力も「学校化」されて、価値の代わりに制度によるサービスを受け入れるようになる。医者から治療を受けさえすれば健康に注意しているかのように誤解し、同じようにして、社会福祉事業が社会生活の改善であるかのように、警察の保護が安全であるかのように、武力の均衡が国の安全であるかのように、あくせく働くこと自体が生産活動であるかのように誤解してしまう。健康、学習、威厳、独立、創造といった価値は、これらの価値の実現に奉仕すると主張する制度の活動とほとんど同じことのように誤解されてしまう。そして、健康、学習等が増進されるか否かは、病院、学校、およびその他の施設の運営に、より多くの資金や人員をわりあてるかどうかにかかっているかのように誤解されてしまう。イリイチ『脱学校の社会』)

 

 「学校化」で失われるのは「物事に対し本質を捉えながら向き合う力」である。ゆえに「学校化」の問題は「子どもの教育」という域に留まらず、「人間が社会というシステムを主体的に運用できるか」というテーマにまで発展すると言えるだろう。「ある価値のために作られた社会制度を人間が主体的に運用する」という本来の社会の有り様は、人々が「学校化」されることによって「社会制度に与えられた基準に対し人間が受動的に従う」という錯誤したものになってしまう。

 

Ⅱ.銀行型教育

 「本質を見て判断できるか」、転じて「主体的であるか、受動的であるか」という性質を左右するのは、「学校化」だけではない。学校教育の「中身」についてもやはり議論する必要があるだろう。「学校化」に切り込むことがマクロ的なアプローチだとすれば、こちらはいわばミクロ的なアプローチである。

 パウロフレイレは教育の「中身」についての悪い例として、「銀行型教育」というものを挙げている。「銀行型教育」とは、簡単に言えば「教師がただ一方的に話し、生徒はただ教師が話す内容を機械的に覚える」といったような教育の構図を指す。

 

 生徒をただの「容れ物」にしてしまい、教師は「容れ物を一杯にする」ということだけが仕事になる。「容れ物」にたくさん容れられるほどよい教師、というわけだ。黙ってただ一杯に「容れられている」だけがよい生徒になってしまう。(中略)生徒と気持ちを通じさせる、コミュニケーションをとる、というかわりに、生徒にものを容れつづけるわけで、生徒の側はそれを忍耐をもって受け入れ、覚え、繰り返す。これが「銀行型教育」の概念である。フレイレ『被抑圧者の教育学』)

 

 「銀行型教育」についても「学校化」と同様の「手段の目的化」が見て取れる。本質的な学びにおいて知識とはリアリティを伴うものであり、連続した歴史性、歴史的特性の上に成り立ち、動的な今という瞬間に集中する。一方で「銀行型教育」はカリキュラムをはじめとするシステムベースのものであり、歴史的存在としての人間は目に入らず、静的状況に重きを置く。フレイレはこういった特徴から「銀行型教育」を「現状維持肯定派」や「ネクロフィリア的」とも表現している。「ネクロフィリア」とは「死するものへの偏愛」を意味する言葉で、エーリッヒ・フロムはこの「ネクロフィリア」という概念について次のように述べている。

 

 命というものは構造的にも機能的にも成長するもの、という特徴をもっているが、ネクロフィリアは成長せず、機械的なものだけを愛する。ネクロフィリア的人格は有機的なものすべてを無機的なものにしようという動機をもち、命を機械的なもの見なし、人間をモノのように見る。命のプロセス、感情、思考をすべてモノに変換してしまう。経験ではなく、記録が、そして存在そのものではなく、所有することが重要だという。ネクロフィリア的な人は、それが花であれ、人であれ、とにかくその“モノ”を所有したときに自己実現ができたととらえるが、そのような考え方は結果としてモノの所有が脅かされたときには自らの存在そのものが脅かされる、つまりモノの所有が脅かされるときは、自らの世界というものが脅かされてしまう、ということに通じてしまう。(フロム『人間の心』)

 

 ここでの「モノ」とは広い意味合いで捉えられる。すなわち「静的なもの」であり、「本質ではないもの=手段」である。またフロムの後半の指摘は重要なもので、ネクロフィリア的人格を持った人々は「モノ」に自身の存在を委ねているがゆえに、動的な「主体性」を避け、静的な「客観性」にコミットする。その結果、自身の行動は客観的に観測可能な事実や因果関係によって決定づけられるようになり、彼らから主体的な行動は失われてしまう。

 

Ⅲ.日本の教育の展望

 2008年に改訂された新しい学習指導要領は、ゆとり教育から脱却したということから「脱ゆとり教育」と称され、小学校では2011年度、中学校では2012年度、高等学校では2013年度から完全実施された。「脱ゆとり教育」はそれまでの「詰め込み教育」とも「ゆとり教育」とも異なる「生きる力」を育む教育というテーマを掲げている。「脱ゆとり」の具体的な変更点は言語活動や理数教育の充実など内容を変更するものから、授業時数の増加や教科書のページ数の増量など純粋に量を増やすものまで多岐にわたる。「生きる力」というテーマが仮に実現すれば「銀行型教育」の様相は薄れる可能性がある。しかしいずれにせよ、学校という枠組みのなかで全てを処理しようとしている以上、やはり前述した「学校化」の問題は解決されない。

 

Ⅳ.教育から社会まで

 日本の現状における「教育」が制度化の象徴としてあり、人々が主体性を失う大きな要因となっていることは既に述べたとおりだ。またⅠで触れたように、「学校化」の問題は社会制度と本質的な価値とを混同させるプロセスとして存在し、「人間が社会というシステムを主体的に運用できるか」というテーマにまで発展する。実際、イリイチの挙げた例のほとんどは現在の日本社会に当てはめることができるだろう。教育改革の方針はもちろん、社会保障は役所に窓口を設けることで履行されたものとされ、長い労働時間は必ずしも生産性に寄与していない。軍備の増強と安全保障が同一視され、地方分権地方公共団体に予算を分配することで遂行されるものと見なされている

 また「ネクロフィリア的人格」についても、その社会的な影響を考える必要がある。Ⅱではこれを「銀行型教育」の特徴として採り上げ、「授業において生徒は終始受動的であり、生徒の側からアクションを起こすことがない」といった状況を一つの例とした。この「学校」と「授業参加」を巡る状況は、ほぼそのまま「社会」と「社会参加」の問題に置き換えることができる。すなわち「ネクロフィリア的人格」が蔓延している状況下では、社会参加へのハードルが高く設定されてしまうのである。

 これらを踏まえると、われわれが社会を健全に運用する上での課題は大きく分けて二つだ。一つは「学校化」からの脱却、そしてもう一つは社会参加へのハードルを下げる試みの実践である。

 

Ⅴ.「学校化」からの脱却について

 「学校化」を脱却するには、何よりもまず学齢期の生活における「学校」のウエイトを減らさなければならない。既に述べたように学習指導要領の改訂に伴った授業時間の増加などは即座に改められるべきだろう。だが、現在の日本の学校教育にはそれ以前になによりも深刻な問題がある。それは「部活動」である。

 「クラブ活動」「部活動」「サークル活動」とは、いずれも共通の趣味・興味を持つ仲間が集まり、それぞれに沿った活動をすることを目的とした団体である。この三つはしばしば同一視されるが、「部活動」のみ学校教育活動として存在している。文部科学省は部活動を「教育課程外」の学校教育としてはいるものの、「原則として全員入部」という制度を採っている中学校も多く、また内申書への影響などから「部活動に入ることが当たり前」といった風潮が一般的なのが実態である。

 部活動の問題は何よりもその活動時間の多さにある。活動は主に放課後に行われるが、朝練と称して朝に活動をすることも珍しくない。とりわけ運動部については活動の頻度が平均的に高く、週あたり6日活動する団体が最も多い。また文部科学省の調査によれば、生徒、教員、保護者の1割から2割が、運動部の最大の問題として「活動時間が多すぎる」と答えている。

 「学校化」は、「学校教育」があらゆる範囲をカバーしようとするために、子どもの価値基準が一元的になることで起こる。したがって「部活動」という「学校教育」がこれほど多大なウエイトを占めているというのはそれだけで問題なのである。

 さらに「部活動」には、それ自体の性質の問題もある。近年では「ブラック部活動」とも呼ばれ、先ほどの「学校教育として長時間拘束する」という問題とは別に、純粋に肉体的負担の問題として拘束時間の長さが挙げられているほか、いわゆる「根性論」に基づいた理不尽な指導が問題化している。またこうした問題があってもなお「辞められない」というのも「ブラック部活動」の問題点の一つで、これは上述したように「部活動」が内申点の評価に影響することや、部活を辞めることで学校での居場所がなくなるといった理由によるものである。

 この「ブラック部活動」問題に対し、2016年8月1日放送のNHKクローズアップ現代(*1)では「長く練習するほど良いわけではないという価値観を浸透させ、拘束時間を減らす」、「やめる勇気を持つ」といった策を提示しているが、いずれも実現したところで「学校化」問題は解決せず、部活を辞めた際の学校での人間関係への影響を本人の気の持ちよう次第としてしまうのも、いささか投げやりな印象を受ける。

 したがって私は、この「部活動」を巡る問題を解決するにあたって、「部活動」そのものを廃止すべきであると考える。「部活動」が担っていたスポーツや文化活動については、完全に「学校外」の枠組みで行われるべきである。

 スポーツや文化活動を完全に学校(とりわけ義務教育)と切り離すことで、形骸化していた「自主的な学生の活動」という部活動の意義は代替され、本人の取捨選択によってより自由にスポーツや文化活動に取り組むことができる。また学校外の指導者、仲間とコミュニティを築くことで、子どもは多様な価値観に触れる機会を得られ、「学校化」からの脱却に繋がる。学校の成績や学校の人間関係とも切り離されているので、指導に問題があったときには内申点や学校での居場所を気にせず辞めることができる。もちろん、それまで「部活動」のカテゴリに入っていなかったボランティア活動や地域参加などの時間を確保することもできるだろう。

 「学校教育」の割合を減らすとともに、多様な場、多様な人間と相互に関わりあえる環境を用意することで「学校化」問題は解決に向かうものと私は考える。

 

Ⅵ.社会参加へのハードルを下げる試みについて

 Ⅳにおいて「社会参加」は「授業参加」の有り様をほぼそのまま受け継いでいると述べたように、まずは教育について「銀行型教育」から「問題解決型教育」へとシフトさせる必要がある。「問題解決型教育」とはフレイレが「銀行型教育」と対称的な教育方法として挙げた概念であり、対話性を重視し、社会を動的なものと捉える理念の上に成り立つ。「銀行型教育」のもとでただ受動的に知識を吸収するのと、「問題解決型教育」のもとで「自分から発信する」という訓練を受けているのとでは、その後の社会参加のしやすさに大きな違いができるだろう。

 しかし、これは基本的に個人レベルでの認識を変える手段であって、直接社会全体の認識を変えていく試みとは言い難い。もちろん皆が等しく「課題提起型教育」を受けることで主体的に社会参加をする人間が増え、そうした人間の割合が着々と増えることで社会全体の空気が変わっていく可能性はある。だが言うなれば、これはハードルを下げるというよりも、ハードルを乗り越える力を個人に付与する試みである。だとすれば本当に「ハードルを下げるような試み」とは、どんなものになるだろうか。

 私は「社会運動を肯定すること」こそが、社会参加のハードルを下げる試みであると考えた。社会運動とは、社会の状況の改善や社会問題について独自に提起したり、政府の社会政策に対して推進/阻止を求める者が、それらの実現を目的として同志を募り団結し目に見える形で行動したりして、世論や社会、政府などへのアピールを通じて問題の解決をはかる運動のことを指す。また近年の社会運動は、かつてのような思想・イデオロギー色の強い運動とは異なり、比較的独立したテーマに沿って主張を掲げるという形のものが多くなった。なぜ、これらを肯定することが社会参加へのハードルを下げることに繋がるのか。それは社会運動というものが、制度化(学校化・ネクロフィリア化)された人格によって否定される傾向にあるからである。

 社会運動は、一般には独自に政党を結成したり、候補者を擁立したりするようなことはせず、圧力団体を組織するまでに留める場合が多い。また近年の社会運動は上述したように細分化しており、ともすれば政治家などに無視されることもありうるような、単なる「意思表示」という目的で行われることもある。

 こうした社会運動の在り方、とりわけ「意思表示」のようなものについては、制度的な視点から見た場合、ほとんど無意味なものと映るだろう。なぜなら制度上の成果が、直接政党を結成したり候補者を擁立したりすることに比べて少ない、もしくは全くないからである。あるいは自身を含む貧困による生活の不自由をテーマとして運動しているような場合、運動に費やす時間と労力を労働に充てた方が、貨幣経済という制度上は少しでも改善されるからである。

 しかしこれらは、価値へのコミットメント、あるいは「社会参加をする機会がより多くあること」それ自体の社会にとっての有効性といった視点を欠いた指摘である。徹底的に制度化された人格は、あくまで制度上の善/悪、役に立つ/立たないといった基準で物事を捉えるため、こうした点まで想像が及ばない。逆に言えば、価値コミットメントに基づいて「無意味」とされる社会運動を肯定していくことで、ただ社会運動というものが認められるだけでなく、制度化された人格の想像の余地を拡げられる可能性がある。そして社会運動という、(制度的な観点から)否定されがちだった「社会参加」の例が広く認められることで、社会全体における「社会参加」のハードルは下がることだろう。

 

おわりに

 冒頭において私は、社会をダイナミックに運用していくためには、皆が社会に対して主体的に向き合う必要があるのだと述べた。ここでいう「皆」とは、「国民一億数千人」といったような「人数」で捉えるのではなく、あらゆる学歴、あらゆる性、あらゆる年齢、あらゆる業種の労働者…といったような、いわば「属性」で捉えられるべきである。

 学校教育のカリキュラムを強化すれば、確かに平均的な学力の水準は上がるだろう。しかし「皆の学力を上げよう」という試みは、教育の対象者を「勉強のできる人間」という「一つの属性」に統一しようとする試みであって、「あらゆる属性」を包括しようとするものではない。「あらゆる属性」を「あらゆる属性」のまま、普遍的に包括しようとするのであれば、仮に勉強に付いていけなくても、一人の人間として主体的に幸福を追求できるような環境作りを目指すべきだろう。教育というものはもっと広義に解釈されるべきであり、教育政策は決して「属性の統一」を目指すものであってはならない。「学校」という場や「学校」という制度の外にあっても、本来のわれわれは学び、実践し、社会を動かすことができる。いまこそ「豊かで幸福な暮らし」という普遍的な価値と社会制度の在り方とを比較して、「皆」の手で社会を再設計すべきではないだろうか。

 

 

(*1)「死ね!バカ!」これが指導? ~広がる“ブラック部活”~ | NHK クローズアップ現代( http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3847/1.html)

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