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「教育」の再考①——「2つの主体性」と「意識化」

 更新再開のお知らせ記事でも書いたように、以下は一年前の記事のリメイクみたいなものです。したがって内容の被りをはじめ、文章の流用等もありますがご容赦ください。また、既に全体を書き終えていますが長すぎるので分割して投稿します。

 

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はじめに 主体性の喪失という危機——2つの主体性

 個人に「主体性」を求める声は様々な場、様々な意味合いにおいて存在します。一つ代表的なのは、民主主義における、政治参加を促すものとしての声でしょう。民主主義とは「達成」されて区切りの付くような、静的なものではありません。それは社会を構成する一人ひとりの継続的な監視と選択によって形を成すような、動的なプロセスそのものです。動的な流れのなかで何かを選択するには、主体的な自己が不可欠となります。主体性を失い、社会がただ従う対象になってしまえば、人々の手からは構造的な問題への対処の手段が失われるでしょう。また社会の設定するものこそが本質的なものであると錯覚することで、人間そのものに優劣がつくことが自然なこととして受け入れられ、それを根拠に他者を排除・攻撃することや、あるいは自分自身を追い込むことまでもが考えられます。そのような状況は、社会という人間のための仕組みが人間の幸福追求に先立つという、本末転倒な結果を招いてしまうことになります。こうした歪みを修正し、複雑化しつつもその本質が「一人ひとりの個人のため」に由来する社会を形作るという意味において、「主体性」は回復すべきものであると言えるでしょう。

 しかし一方で「主体性」を求める声には、例えば企業等における「人材」の条件として挙げられるものなどもあります。「人材」として求められるということは、ある組織や制度に対し、すなわち企業であれば企業に「資するもの」として求められているということです。つまりこうした場合において「主体性」という言葉は「組織や制度のための個人」という構造を支えており、上述した「個人のための主体性」とは似て非なる文脈で用いられていることになります。

 この記事では、まずこれらを区別するために前者を「気づきとしての主体性」、後者に類するものを「技術としての主体性」として位置づけ、人々による「気づきとしての主体性」獲得のための手段として「教育」の在り方に着目します。教育は個人に対し主体性を奪う装置として機能することもあれば、主体性を回復する手段にもなりえます。人々が主体的に生き社会をダイナミックに運用するためには、現状の教育の何が問題でどう変えていくべきなのでしょうか……

 

Ⅰ 理想としての「意識化」

Ⅰー1:意識化とはなにか

 ブラジルの教育思想家パウロフレイレは著書『被抑圧者の教育学』において、「意識化」という概念を教育における重要な事項として位置付け、自身の主張のなかで同様の表現を繰り返し用いています。「意識化」とは、学びにおいて自身のおかれている状況や、社会的、歴史的な存在としての自分自身を対象化することであり、つまりは学びそのものを「問題化」することです。これはすなわち、上述した「気づきとしての主体性」を獲得することに他なりません。

 フレイレは教育の「悪しき例」として「教師がただ一方的に話し、生徒はただ教師が話す内容を機械的に覚える」といったような構図を挙げ、こうした教育の形を「銀行型教育」と名付けて批判しました。彼によれば本質的な学びにおいて知識とはリアリティを伴うものであり、連続した歴史性、歴史的特性の上に成り立ち、動的な今という瞬間に集中します。一方で「銀行型教育」はカリキュラムをはじめとするシステムベースのものであり、歴史的存在としての人間は目に入らず、静的状況に重きを置きます。フレイレはこういった特徴から「銀行型教育」を「現状維持肯定派」ネクロフィリア(死せるものへの偏愛)的」とも表現しています。そしてこうした「主体性を喪失させるプロセス」としての「銀行型教育」に対し、それを回復するものとしてフレイレが提唱したのが「対話」、またそれに伴う「意識化」という手段なのです。

 

対話とは世界を媒介とする人間同士の出会いであり、世界を“引き受ける”ためのものである。(……)言葉を話すという本来の権利を否定されてしまった人がこれらの権利を得ることがまず必要だし、このような非人間的な攻撃を止める必要もある。言葉を発して世界を「引き受け」、世界を変革するのであるならば、対話は人間が人間として意味をもつための道そのものであるといえるだろう。(フレイレ1970,2010『新訳 被抑圧者の教育学』121頁)

 

 こうした「意識化」の教育をフレイレは「銀行型教育」と対を成す「課題提起型教育」と呼び推奨しています(以前の記事では「問題解決型教育」と表記していました。フレイレ関連の訳書によってはそのように表現しているものもあるのですが、現在私は「課題提起型」の方が表現としてより適切であると考えています)。「意識化」を軸とした彼の教育思想は1960年代後半から70年代にかけて大きな支持を得ましたが、80年代以降の新自由主義の台頭とともにその勢いは一時衰退しました。しかし主体性の喪失が今日的な問題である以上、社会を変える力を一人ひとりに与えんとするフレイレの教育論は今なお価値があるはずです。「気づきとしての主体性」を獲得するにあたり、彼の掲げた「意識化」の教育という理念は、教育目標としてはひとつの「理想」であるといえるでしょう。

 

Ⅰー2:意識化のハードル

 しかし、フレイレが「意識化」=「課題提起型教育」と対置している「銀行型教育」的な、いわゆる「詰め込み教育」にはそれを「個人のため」にむしろ擁護しようという声もあります。陰山英男は2002年の自身の著書(注1)において、当時の日本国内が「ゆとり教育」によって「自ら考え、自ら学ぶ」という態度を育てようという「新学力観」の推進を主流としていた(この目標設定がフレイレの「意識化」と一致していたかどうかについては②の記事で扱います)のに対し、「古い学力」として排斥されつつあった読み・書き・計算の反復練習などの重要性を訴えていました。岩木秀夫はこうした陰山の動きを次のように説明しています。

 

陰山があえて管理教育のそしりを甘受してまで、読み・書き・計算の反復練習の価値にこだわったのは、それこそが、とりたてて社会階層の高くない普通の子どもたちに、競争から脱落せずに生涯学習をつづけることを可能にすると、確信していたからでした。(……)計算タイムを競い合ったりする彼らの実践は、子どもを受験戦争にまきこむものだと、予想どおりのはげしい批判をあびました。これに対して、彼は、「親の学歴や収入などによって進路が左右されたり、子ども時代に学ぶべきことを学ばずに成長してしまったりするような、そんなこと」をなくしたかったのだと、説明しました。(岩木2004『ゆとり教育から個性浪費社会へ』36頁)

 

 陰山の主張は、「競争」という社会構造(に従うこと)を前提としているため、「気づきとしての主体性」という目的を動機づける「社会をつくる力」の醸成議論とは土俵を同じくしません。しかし彼の言うように、足並みを揃えて行われる単純な知識の詰め込みや反復練習が、家庭内での学習の機会などに恵まれている子どもたちと、そうでない子どもたちとのインセンティブの格差(注2)の是正に寄与していたことは認められるべきでしょう。またそうした事実から、逆に「意識化」はハードルの高い要求ではないかという疑問も生まれます。……この問いについては「意識化」を戦略として扱う上で重要となるため、後に改めて扱うこととしましょう。

 

 

②『ゆとり教育とはなんだったのか』へ続く……

 

注釈

(1)陰山英男2002『本当の学力をつける本』文藝春秋

(2)インセンティブは、「動機付け」や「刺激」とも訳される。教育におけるインセンティブの格差(インセンティブ・ディバイド)とはつまり「学習意欲」の格差のこと。詳しくは苅谷剛彦2001『階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)へ』を参照。

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