みやめも2

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「教育」の再考②——ゆとり教育とはなんだったのか

前回の記事(「教育」の再考①——「2つの主体性」と「意識化」 - みやめも2)の続きです。

 

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Ⅱ これまでの日本における教育——ゆとり教育とはなんだったのか

Ⅱ-1:ゆとり教育は「意識化」を目指したか

 1996(平成 8)年の中教審答申「21 世紀を展望した我が国の教育の在り方について」は、<子供に「生きる力」と「ゆとり」>という副題を持っていました。「生きる力」という言葉がはじめて使われたのはこのときのことですが、ここでの「生きる力」そして「ゆとり」という二つの概念にあたるものを目標設定とする試みは、それより以前の1974年、当時の中曾根政権のもとで作られた臨時教育審議会(臨教審)の登場に端を発します。中曾根首相直属のこの審議会はもともと、同時期に足並みを揃えていたアメリカのレーガン政権、イギリスのサッチャー政権なみの、新自由主義的な行財政改革をねらって発足しました(米英においてそうした新自由主義は、学区や地方教育当局の規制あるいは教員団体の力を、市場イデオロギーによって排除したうえで、学力向上・規律回復をねらう能力主義メリットクラシー政策を国家的に推進する役割を果たしました)。しかし臨教審内部において、中曾根総理(当時)に近しい委員の集まる第一部会が自由化論を強く打ち出したものの、第三部会は教育の機会均等を損なうものとしてこれに反発、激しい対立を生み出し、結果的に折衷案として「個性重視の原則」が改革の基本視点として打ち出されることになりました。次いで「生涯学習体系への移行」「国際化・情報化といった変化への対応」が更に基本視点として加わり、これらをまとめた答申が、後に続くゆとり教育の基礎を作ったとされています。

 さて、70年代の半ばは、日本社会がモダンからポストモダンへと移行した時期であると言われています。フランスの哲学者リオタールは著書『ポストモダンの条件』において、ポストモダンの誕生を大きな物語の崩壊」に伴うものであると表現していますが、戦後に整備されて70年代半ばまで続いた日本の教育は、まさにひとつの「大きな物語」を軸とした「単線」「段階的」に通過させるものとして存在し、将来の勤労者生活に必要な、合理的かつ禁欲的な生活態度を身に着けることを子どもたちに求めてきました。しかし時代がポストモダン(日本では「成熟社会」と表現されることもありました)へ移行したと認識されはじめると、成熟した(多様化した)社会に見合った教育が必要であるとの議論が起こり、臨教審答申のような新たな目標設定が教育分野において求められたのです。

 ここまでを見ると、それまでの詰め込み教育からの脱却という点でフレイレの「銀行型教育」批判に通じるものがあるように思えます。しかし、そう考える以前にこれらの教育改革が新自由主義とともにあったという事実に注意しなくてはなりません。なぜならフレイレの議論は、明らかに新自由主義や市場主義と親和性の高いものではないからです。(このあたりが、一年前の記事で訂正した箇所にあたります)

 

Ⅱ-2:ポストモダン・ブームの歪み

 臨教審答申に始まり、1998年の学習指導要領改訂(実施は2002年)に至るまでの、いわゆる「ゆとり教育」改革の流れは、上述したようにポストモダニズムの流行によって大きく支えられてきました。ポストモダニズムは、モダニズムに対する不信、反動、超克といったものを起点としますが、だとすれば、「モダニズム」にあたる部分に何を据えるかによって「ポストモダニズム」の志向性も異なってくると考えられます。

 私は「モダン」とされている70年代半ばまでの教育の問題点を、画一化された価値観による「銀行型教育」に見出します。それらの本質は「Aという行動からはBという結果が必然的に起こる」といった思考様式、言うなれば「思考の関数化(自動化)」(注1)であり、それは政府主導にしろ市場主導にしろ、巨大な画一的価値観を媒介とした社会である限り起こり得る問題です。

 ところが70年代半ばから80年代の日本におけるポストモダニズムの「流行」は、モダニズムの孕む本質的な問題点を考慮することなく、単純に「モダン社会にあったもの」を否定する流れとして生まれてしまったように思います。その結果が「大きな政府の否定」であり、新自由主義との親和なのでしょう。これは構造としてみれば、上述した「関数」が政府由来から市場由来のものへ移行したに過ぎません。そして合理主義、能率主義、産業主義を支えてきた主知的な価値規範への否定としてあらわれたゆとり教育の個性重視、自己実現といった考え方は、新自由主義社会のもとでは「自己責任」と表裏一体にならざるを得ず、そうした社会を生き抜くためには結局画一的な価値観に従って競争をするほかなくなってしまいます。

 またこの時期のポストモダンへの移行そのものについてもやや歪んだ経緯があり、いわゆる「成熟社会」論の背景について岩木秀夫は次のように述べています。

 

臨教審答申の時代認識は、日本は追い付き型で近代化をすすめてきたが、その近代化はじゅうぶんに達成した。もはや、ポスト近代社会をつくりあげなければいけない段階に到達した、ということでした。(……)この言説はじつは八〇年代なかばの、特殊な政治経済状況のなかで生まれた、特殊な言説です。七〇年代なかばの第一次オイルショック以降に、日本は、省力化と多品種少量生産によって、世界経済の中で一人勝ちをつづけました。その結果、アメリカから輸出削減と輸入拡大をせまられて、しかたなく、それまでの科学技術立国・貿易立国という国是をすてました。内需拡大規制緩和という路線の誕生です。成熟社会論は、その別名でした。(岩木2004『ゆとり教育から個性浪費社会へ』39頁)

 

 つまり、ゆとり教育における「生きる力」とは、偏ったポストモダン思想とそれに伴う新自由主義の台頭を背景とした時代の流れを汲んで「自ら考え、自ら学ぶ」ための「技術」を養わせようという、まさしく「技術としての主体性」を求める意味合いがほとんどのキーワードだったのです。しかし「生きる力」というコンセプトはその成り立ちにおいて上述した臨教審内部での対立などを経ているためか、その全てが「技術」としての性質によって構成されていたとまでは言いきれない部分もあります(注2)。とはいえ、少なくともゆとり教育という実践の結果については疑いなく、フレイレの議論、そして私がこの記事で意図するような「意識化」を目指すものにはなっていなかったといえるでしょう。

 

 

③『脱ゆとり教育の正体』に続く……

 

注釈

(1)イヴァン・イリイチ1970『脱学校の社会』における「学校化」概念とほぼ同様。関数y=f(x)は、xに変数を入力することでyの値が定まる。この「xを入れるとyが出てくるという式」がブラックボックスとして人間の思考のなかに組み込まれ、処理が自動的になっていくことの表現。

(2)授業時間数を削減し、学齢期の子どもの生活における「学校」のウエイトを減らそうとした点は方向性としては評価できる。しかしこの手法は学校がカバーしなくなった部分を事実上「丸投げ」にしてしまったため、結果として教育格差を拡大してしまった。

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